世の中には報われないことがたくさんあるんだな、とぼんやり思った。
 少しほこりっぽくて、誰もこないような体育倉庫の跳び箱の陰でひとり膝を抱えて。鼻がずびずびいっているのは、生来のアレルギーがこの体育倉庫に充満する埃に反応していることだけが要因であると思いたい。もうそんなに気分でもないのにじわじわと、雨上がりの砂場を掘ったときのようにあふれてくる涙も、きっと埃のせいだ。持ってきていたなけなしのポケットティッシュでちーん!と鼻をかむ。

 どうしてこんなところにいるのか。それはほんの少し前―――今は五限目であるから、昼休みに遡る。

 自分、名字名前には好きな人がいた。九州の片田舎で生まれて、2歳のとき埼玉に越してきてから、ずっと隣にいた幼なじみである。今年で16になるから、つまり、14年近い仲になる。年を重ねるごとに疎遠になってゆくことが多い男女の幼なじみと呼ばれる間柄は、名前と彼の間では型にはまらず、今でもお互いの部屋を行き来する程度には仲がよかった。しかも、名前には彼を誰よりも理解しているし、彼は自分のことを理解してくれているという自負があったのだ。
 そこまで考えて、名前はまたじわっと水分を含みだした瞳に袖口を押さえつけた。―――そう、彼は自分のことを誰よりも理解してくれていた。
 理解してくれていたからこそ、釘をさされたのだと思う。
 彼は名前が彼に特別な想い―――親愛とは違う、恋慕の感情を―――抱いていたことに気づいていた。だから、それとなく名前に伝えてきた。

―――「俺、好きな人がいるんだ」はた、とお互いの目があって、逸らされる。「違うクラスに」

 ついさっきのことであるのに、なぜこんな話になったか名前は思い出せなかった。たぶん、どうせ自分がよけいなことをいったんだ。
 彼のことを一番理解できている名前にとっては、それが、もう彼の一番が名前でなくなったことを伝えてくれている言葉だと、容易に理解した。してしまった。

「へえ、誰?教えてくれるの?」

「ん?あー…名前にならいいかな。誰にも言うなよ」

 その信頼が、いまは痛かった。彼が告げた名前は八束美鶴といった。学年でも五本指に入る程度にはカワイイ子で、自分とのいろいろな差を見せつけられた気がして、どうしようもなく自分が惨めに思えてくる。
 ―――どうして?どうしてその子が好きなの?
 そこまではさすがに聞けなかった。たぶん聞けば答えてくれるだろうが、名前の心と涙腺が持ちそうになかったから。すでにあともうちょっと会話を続けただけで涙がこぼれおちてきそうな気がしたのだ。だから、「そうか、がんばって、ね」と、ふるえる声すら隠さずにいって、その場を後にした。




 そして、今に至る。
 なんで体育倉庫なのかは自分でもよくわかっていない。保健室にはよりもせずに教師にも一言もいっていないから、今の私は本当にただのサボりの生徒である。彼がちょっとでも動揺すればいいのに、と、そういう思考が心底にあったことは否めなかった。

「はぁぁぁ………」

 ひとりで考えているとどんどんいやな方向に思考が進んでいくものである。とくに名前のように精神に大きいダメージを受けた、女子高生にとっては。ため息をつくと幸せが逃げるって言うけど、それが本当なら名前には雀の涙ほどの幸せしか残ってないだろう。それくらいため息をついていた。
 14年も一緒にいたから女としてみられていなかったのだろうか。それとも、それ以前の問題?
 たとえば、外見。彼が告げた八束美鶴とは五本指にはいる―――違うクラスの名前でも知っていて、遠目からみえもハッとするようなかわいい子である。自分の外見をそんなに気にかけたことはなかったが、高校生にもなって化粧の1つも覚えてない事実には名前の母も嘆息していたことを名前は知っている。それに比べて彼の想い人はすでに、生来の顔立ちを完璧に引き立てる、ナチュラルメイクというものを完成させていた。どうして同じ年数生きているはずなのにこうも差がでるのだろうか。
 自分も可愛くなれば、彼に見てもらえるのだろうか。

「…無理だ…」

 上に兄が1人いるだけの名前にとって、誰かからメイクを教わるというのは難しすぎた。母に教わるという案も浮かばなかったことはないが、なんか、違う気がする。みんなそういうのってどこで学ぶんだろう。
 じわ、とさっそく壁にぶち当たったやるせなさからくる涙が瞼からあふれてきたのを感じて、あわてて袖で拭う。なんか今日の涙腺もうだめかも知れない。
 その時だった。
 ずごごご、と体育倉庫の錆ついて重い扉が開いて、それまで薄暗かった体育倉庫には開いたところから差し込む光が溢れ、目が眩む。それでもその扉を開けた人物に―――たぶん名前は期待して―――必死に目を凝らしたが、いかんせん眩しい。

「えっと……?」

 聞こえた声は彼でなくて、やっとなれてきた目は(入学してまだ3ヶ月もたっておらず、1学年10クラス以上ある桐青では当たり前のことではあったが)全く見たことのない人を捉えた。誰だろうこの人。

「……なんで泣いてんの? いじめ?」

 なんてデリカシーのない人なんだろうと名前は思った。ふつう、初対面の女の子が泣いていたらもうちょっと戸惑ったり、声をかけるにしても気を使った表現があるはずである。その態度が名前のささくれた心にひっかかって、失礼だとはわかりつつも返事をするのを取りやめた。

「あー…いや、そんな気にすることないと思うけど。うわばき赤いってことは1年だろ?まだ学校はじまって3ヶ月だし、これから本当の友達なんてたくさん…」

「っちがいます!いじめじゃないです!!」

 続けて「バカ!!!」と思わず叫びそうになって、すんでのところで押さえた。さすがに初対面のひとを罵るような度胸は名前にない。
 相手は相手で急に勢いをとりもどした名前に拍子抜けしたらしく、ほんの一瞬言葉を失ったようだった。しかし、次に口を開いたときはさっきのような軽さがなくて、

「……じゃあ、失恋かなにか?」

 と、問いかけてきた。
 びく、と自分の肩が揺れるのがわかる。なんで二言目で図星をつかれなくちゃならないんだ、と謎の憤慨を抱くが、よくよく考えてみれば高校生の女の子が授業をサボってまで泣くような理由なんて、だいたいそんなもんだった。

「あー…ナルホドね。うん。 それはつらかったなー」

 答えない名前の無言を肯定と見なして、一人で納得している相手。そのまま名前の方へすたすたと近寄ってくると、すっとしゃがみこんでそっと頭の上に手をおいた。

「よしよし」

「………!?」

 名前は一瞬なにをされたか理解が追いつかなくて、少し間をおいてから自分の頭が撫でられていることに気づいた。この人初対面だよね?なんでこんな簡単に触ってるの?と思いつつ、その手をどけられないのは、きっとその手つきがとても優しいものだったからである。

「う………」

 と、予想外のエンカウントに止まりかけていた名前の涙がまたあふれだした。予測済みだったのか、相手は驚かない。

「話してみれば。 一人で抱え込むより、楽になるはずだから」

 今思えば、その時の名前は本当に冷静でなかった。
 人生初の失恋(というか、ずっと【彼】のことしかみていなかったため)で傷ついていたということもあるし、しかも目の前にいる相手は初対面で気が楽だったということもあるのかもしれない。
 だが、普段の名前なら、他人に、自分が幼なじみに恋していたことも、その失恋の理由も、きれいになれないことに対する悩みも、吐き出すことはなかっただろう。
 それをすべて聞き終わった相手のことばはこうだった。

「努力もしてないのにあきらめるなんてダサすぎ」

「え…ダサ……? いや、でも、なにをしたらいいのかさっぱりだし、相手はあの八束さんですよ…」

 八束美鶴。先ほど述べたことに付け加え、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、容姿端麗成績優秀品行方正、そして性格も良く人望も厚いという、【神は二物を与えず】という言葉をを真っ正面から否定しても身に余らないような女の子だった。八束美鶴が一人笑えば、その場に花が咲く。名前は最初美鶴をみたとき、花が飛ぶってマジであるんだ…と呆然としたおぼえがあった。
 そんな八束美鶴を、この先輩は知らないのだろうか?

「でも14年も片思いしてきたんだし一緒にいたんだろ?」

「いや、好きになったことに気づいたのは物心ついてからなんで、14年まるまるってワケじゃ…」

「どうしてそう話の腰を折るようなこと言うわけ? まぁいいや、とりあえずすごいおまえはその幼なじみが好きで、ひとりでこんなところで泣いちゃうくらいあきらめたくないわけな」

 ぐっ、と言葉に詰まる。先輩のいっていることは名前にとって事実であったし、不思議と心に沁みるような語りであったから。

「高校生のキレイカワイイなんて化粧一つでかわるほんとオプションみたいなもんだと俺は思うよ。これで相手が大人のお姉さんとかだったら難しいけど、よく考えてみろ、若さという女性最大の武器の攻撃力はおまえも八束って子も同じだ」

「先輩おじさんみたい…」

「うるせぇ、で、どーすんの」

 ぺし、と軽く頭をはたかれてから、自分と同じ目線まで屈み込んだ相手にまっすぐ見つめられて問いかけられる。しかし、名前にはなんの問いかけなのかわからなかった。

「えっと、…なにがです?」

「それでもおまえはあきらめるの」

 相手の切れ長のやる気のなさそうな瞳が名前を瞬きもせずに見つめていた。名前から見た相手の瞳は、一度目があってしまうとそらせなくなるような、そんな瞳をしている。

「…あきらめたく、ないです」

 絞り出すような気持ちだった。幼なじみの彼を好きな気持ちは誰にも負けない自信があったのに、その自信は八束美鶴という存在一つにここまで揺らがされる程度のものだったことも、名前の心を萎れさせる原因のひとつであったのだ。
 そんな自分があの雲の上のような存在の八束美鶴を抜いて、彼の中で女として上位に立つことができるのだろうか?
 そういう考えも全部越えたところに、名前の本当の気持ちがある。

「まだ、あきらめたくない」

 きっと語尾はふるえてしまっている。絶対にかなうわけないと心のどこかで思っている。でも、あきらめたくなかった。どうしてこんなに好きなのかも、あきらめないとどうにかなるものなのかということも、どうでもいいと名前は思った。
 相手の瞳は、そうしぼりだした名前を見てすっと優しく細められ、ふとのばされた腕が名前の頭をくしゃりと撫でるというには些か乱暴な動作で、撫でる。

「よし、なら慎吾さんが協力してあげよう」

「へ?協力?」

 思いも寄らなかった言葉に戸惑う。協力って、よく少女マンガである、【○○ちゃん協力してよ】みたいな、あれ?でもそれって、協力してもらったほうは大概うまくいかないことが多いような?っていうか、女友達ならまだしも、男の、しかも先輩ってどう協力するわけ?
 そんな名前の心情を知ってか知らずか、相手は続ける。

「ある程度なら化粧とかわかっちゃうし、なによりそういう男女の機微は結構得意なほうだっていう自負があるから」

「………」

「ど?」

 くい、と小首を傾げるように名前をのぞき込んで来た相手の行動にうっと息を詰まらせ、少しだけ肩を引いた。

「え、えー…どうしてそこまで」

「深い意味はないから軽く答えていーよ。で、どうなの?このまま?それとも、俺と一緒にかわいくなる?」

 その表現の仕方はどうなんだろう…。でも、不思議と了承したくなるような問いかけだった。相手の姿形が、声色が、そういうことをいってもスベらない程度には落ち着いて、整っていたから。

「…お、お願い、します」

 こういう流れで名字名前は、もう情報の早い同級生女子の間では【あの】をつけられて呼ばれている島崎慎吾の、よくわからない協力を得ることになったのだった。

20111212 織間