みょうじなまえは、すでに昼食を食べ終わって(なまえの倍以上の量をなまえより倍以上はやくたいらげた)先に席を立とうとしていたエースにせき立てられ、皿に残ったものを一生懸命口に詰め込んでいた。
 最後の一口を口に詰め終わるや否や、エースはなまえの皿をひょいと持ち上げて厨房のほうへ返しに行く。なまえは口にものがつまりにつまっている状態だったため、エースを制止することができなかった。戻ってきたエースに皿を片づけてもらった礼を言おうとするものの、まだ口の中のパスタが片づかないし、口の周りは汚いしでなまえは顔をあげることができない。エースはそんななまえの頭にまた帽子をかぶせると、

「じゃ、風にでもあたりにいくか」

と、口の端を軽くあげるように笑いながら、なまえの返事も待たずにさっさと厨房をでていってしまった。なまえはその強引さに多少驚きつつも、いやな気分がしなかったことに気がついてしまってなんだか恥ずかしくなり、被らされていたエースの帽子の鍔を両手でつかんで、さらに深く被りなおす。




 甲板にでると心地よい風が吹いていて、その風に運ばれてきた雲が、さっきまでの肌を焦がすような日差しをよわくしていた。
 そして、あらためて目の前に広がる空の青と海の青を見て、なまえはここが別の世界なんだと実感する。

「海がそんなに珍しいのか?」

 ただただその広がる青を眺めたままで一言も発しようとしないなまえをみて、甲板の柵に寄りかかったエースが不思議そうに問いかける。なまえはそんなエースに一度視線を渡してからまた目の前に戻し、「こんなにきれいな青ははじめてです」と小さくいった。
 へぇ、と聞いてるのか聞いてないのかよくわからないエースの返事を聞いていると、ふと水面に小さな泡ぶくが浮いているのが目に入る。なんだろう、と思ってなまえが少し身を乗り出した直後、穏やかだった風が急に強く吹き抜けた。
 その瞬間、エースの帽子が風にさらわれてしまう。
 
「あっ」

 なまえとエースの両方が同時に手を伸ばし、身を大きく乗り出したなまえの手が帽子をつかむ。
 そして、帽子をつかもうと右手をのばしかけていたエースは、体勢をくずしかけたなまえを制止するために左手を無理にのばし、そのままバランスを崩して海に落ちてしまったのだ。
 船員たちが見ようものなら即座に海に飛び込むくらい慌てるものだが、なまえは即座に誰かを助けに呼ぼうという考えが浮かぶほど、焦ってはいなかった。なまえの中のエースは海賊であり、当然泳げるものだと思っていたから。
 先日コウキが赤目について説明していた時、重要な事を話そうとしたところに海軍の追撃があったため、なまえはそのことを聞き逃していた。―――とてもとても重要だけれど、別の世界から来たなまえは知らないこと。
 ―――エースは”悪魔の実”の能力者で、海に嫌われ、海に触れたとたんに力が奪われてしまうことを―――なまえは知らなかったのである。

「…? エースさん…?エースさん!」

 なまえは自分の手にあるエースのテンガロンハットをつかむ力を無意識に強くする。
 海に落ちたエースが、そろそろ海面から顔を出しても良さそうな時間なのに、その気配すら見えない。さすがのなまえも違和感を感じて、甲板から海をのぞき込んだ。

「エースさん!どうしたんですか!?エースさん!!」

 海面に呼びかけるも、それらしき陰さえ見えない。なまえは出会ってからエースの弱点なんてみたことがなかったし、海賊としてのその実力も、そしてその優しさも、第一の信頼を向けている相手でもあった。そのエースが海に溺れるなんてことを、なまえ頭のどこでも考えなかった。
 しかし、エースはあがってこない。
 なまえは頭からすーっと、血が引いていくのがわかった。それでも叫び続けるなまえの声を聞きつけた一人の船員が、尋常でないなまえの様相を見て近寄ってくる。

「おい、どうした?」

「エ、エースさんが、海に!あがってこなくて!」

 船員はなまえがいつの間にか抱きしめていた帽子を見るや否や、

「どけッ!」

 矢のような速さで走ってくると、なまえに構ってる暇がなかったからだろうか突き飛ばし、船端に飛び乗り、そのまま海へ飛び込んだ。
 思わず尻餅をついたなまえや、聞こえた怒声、続く水しぶきの音を聞きつけたのかさらに近くにいた船員がよってくる。
 なまえは即座に立ち上がると、自分も船端へと走りよっていった。そして海をのぞき込み、まだ消えない波紋を見て、まだ見えない人影を見て、自分も飛び込もうと帽子を甲板においた。そこで、後ろから両肩に手がかけられる。

「おい、どーした?また海に飛び込むつもりか?さすがに今ここで落ちたら前みたいにはいかないぞ」

「聞こえたのはサッチの声だったな。なにがあったんだよい?」

 あわてて振り向くと、そこにはコウキと、その上司である一番隊隊長マルコがいた。二人もなまえの顔色を見て普通じゃないことが起きたことを悟ったのか、海をのぞき込む。
 と、そこでやっと、

「ぷはっ!」

「サッチ?―――おい、その抱えてるのエースか!?」

 海面をのぞき込んでいたマルコが叫んだ言葉を聞きつけて、なまえはコウキに捕まれていた肩をふりほどいて船端に駆け寄って、落ちそうなくらいにのぞき込んだ。
 揺れる波間からでているサッチとよばれた男の肩にぐったりと腕をあずけたエースを見て、その目が力なさそうに閉じられているのを見て、なまえは目を見開いて、顔が真っ青になる。

「…おい、マルコか!?エースが海に落ちた!かなり海水飲んじまってるみたいだから、医務室でドクター呼んできてくれ!」

 サッチがそう叫ぶと、マルコはコウキに一言いってから船内へと走っていった。コウキは引き上げるのを手伝えといわれたのか甲板に取り付けられていたロープをくくり付け、海へ投げ込む。さらに救助用の浮き輪を投げた。
 なまえは、そんな二人の行動を声もなく、身動きもとれずに見つめることしかできなかった。

 みょうじなまえは、船内にある医務室の前で膝を抱えて座り込んでいた。顔を膝に押しつけるようにして、それでも目は閉じなかった。閉じれなかった。出来事から目を逸らすことはしてはいけない気がしたからだ。

「俺の説明不足だよ。おまえはなんも悪くねーって」

 コウキはしゃがみ込むなまえの横に立っている。心の底からなまえに責任を問うつもりがこれっぽちも無いことは、なまえが接触感応能力者じゃなくてもわかることだった。でも、それでも。

「…エースさんがたとえ泳げる人だったとしても、ふつうは人を呼ぶべきだったんです。わたしがおかしかった」

 あの大海原に落ちたのだ。たとえ泳ぎの達人であろうと、誰かの手助けなしには容易に甲板に上がれるわけがない。冷静に考えてみればわかることなのだ。これは、なまえの盲信が生んだ、なまえに責任がある出来事である。

「…赤目が特別視されるもうひとつの理由って、これですか」

「ん?…ああ、そうだな。赤目は何の対価もなしに異能を使えるから。まあ悪魔の実の能力者じゃなくても常人離れした能力を持つやつはごまんといるけど」

 それとはまた原理がちがうっつーか、とコウキは顎に手を当てて言葉を探しているようだが、なまえは正直いって言葉の先を待つつもりはなかった。この話題を振ったのも、ただ単に話を逸らすためだったし。

「少し、潮風にあたってきてもいいですか」

「おー、間違えても海に落ちようとかそういうこと考えるなよ。今度こそエースにしばかれっかんな」

 なまえは返答をせずに、その場をあとにした。




 月が海に浮いて揺れていた。潮風も昼間とはうってかわってさらさらと流れている。海の気候は変わりやすいと聞いたことがあるが、こういう変わり方ならいいものだなあと、流れてくる空気を吸い込む。
 甲板から船の先頭までいくと、そのまま船首によじ登って、そこでまた膝を抱えてみた。波はとても穏やかで、船がまったくといっていいほど揺れないからこそできることだ。
 ひとりになって、潮風にふかれて、月明かりに照らされて、目を閉じると、イヤでもぐったりとしたエースの表情が脳裏に浮かんで、目をぱっと見開いてしまう。ひとりになるとなおさらつらいものだとなまえは思ったが、誰かがそばにいてもそれはそれでどうせつらいので、ならば誰にも迷惑をかけないほうがまだいい、ともうしばらくそうすることにする。

「よォ」

 なまえが一人で感傷に浸っていると、後ろから声がかかる。振り向くと、ひとりの青年がたっていた。
 その青年には見覚えがあった。エースが落ちたとき一番最初に駆けつけ、そして迷わず海に飛び込み助け上げ、たしかサッチとかよばれていた青年だ。

「そんなところに上ってちゃあ、危ないぜ」

「…あ、」

 なまえはサッチのまっすぐに自分をみつめる瞳をみて、その瞳にはなまえを純粋に心配する感情以外になにもみえなくて、耐えきれず目を逸らしてしまう。この船にとってのエースは、家族だったはずだ。その家族の命を危険にさらした罪悪感で、口から言葉が出ず、黙り込んでしまう。
 そんななまえの表情を見て、サッチは小さく息を吐いてから手をのばした。

「話は聞いてるよ。おまえが悪いんじゃないってことも」

 ぱっとあげたなまえの表情をみて、「だからそんなヒデェ顔してんな。エースが起きたら一番に謝れるように、そばにいとけ」と、茶化すように笑いながら手をさらに差し出してきた。
 ―――この船の人は、ほんとうに、どこまで優しいのだろう。私は、余所者でしかないのに。
 うれしさの裏側にあるもどかしさに小さく唇をかみしめながら、なまえは目の前にさしだされたその手をつかもうとした、時。

「え…?」

 目の前にいたはずのサッチが一瞬にして消えた。なまえは急いで船首から飛び降りると、サッチが立っていたところを凝視する。なにが起こったのか把握できていないなまえが、状況を探ろうとしゃがみこんで甲板に掌を伸ばす。
 と、掌をつける直前に、甲板に人影がうつった。月はなまえの背後にあるから、きっと自分の後ろに誰か立っているのだ。そう判断したなまえはゆっくりと、自分の背後へと首ごと視線を回す。

「…だれですか」

「常盤という。 お前が抵抗しなければ誰も怪我はしない」

 そこには月を背後に船首に立つ、青を散らした黒髪をもつ青年がいた。
 名乗られたがそれはなまえにとって明確な答えになっていない。しかし、その夜色の青年の羽織っているマントには若干の見覚えがある。

「海軍…の」

「そうだ」

 青年が目を伏せるのを見た、となまえが認識したときにはもうすでに、自分が座り込んでいるすぐそばに青年は降り立っていた。

「瞬間移動…」

 その能力の判断はすぐについた。そして、以前この船を沈めようとしていたのもこの青年だとすぐに把握する。なまえはすぐに立ち上がって距離をとろうとするが、青年がゆっくりと人差し指を上に向けたことにより意識をそちらに奪われる。やはり瞳が赤い。

「あと30秒くらいか」

 青年は独り言のように、その人差し指を空に向けたまま言う。

「…なにがですか」

「能力を抑えてくれないか。俺の瞬間移動は赤目の能力が発現しているときの赤目に使うと大幅な干渉を受けるから」
「そんなこと、」

 するわけないじゃない。なまえは自分のきている服の裾を握りしめている。自分が接触感応能力を抑えたが最後、この青年の瞬間移動を使われるのは目に見えている。―――どういう用途で使うかは判断しかねるが、すくなくとも無害でいられるわけがない。
 服を握りしめて、素材やら作られた工場やら、そういうどうでもいい情報をさぐり続ける。止めるわけにはいかなかった。

「時間が無い」

「だからなにが、…」

 そこでなまえは言葉を失った。この男のカウントダウンがなにを意味するか感づいてしまったのだ。

「まっ…なんでそんなこと!」

「…遙か上空からのフリーフォール。白ひげの船員ならきっと気絶なんてひ弱なことにはなってないだろう。意識を保ったまま、今頃なにを考えているんだろうな」

 さっきから表情を一切うごかさなかった目の前の青年が、うすくわらった気がした。目眩がする。空を見上げることができない。

「おまえが抵抗せずについてくるだけでいい。そうすれば、誰も怪我はすることはない」

 そしてその目的は自分らしい。自分のせいで、ほぼ無関係なこの船のクルーが、意識があるまま遙か上空から落ちてきて甲板に激突するなんて、そんな惨事は起こせない。
 迷う暇なんてなかった。

「ついていきます…ついていきますから、早く戻してください!」

 自分の服をつかんでいた掌をそっと開いて、そのかわりに瞼をぎゅっと瞑った。
 海軍の青年が、ふせた手を小さく横に振る。

20120110 織間