海軍本部のとある准将の執務室。
 とくに狭いわけでもなければ、とても広いというわけでもない。飾り気はないが、地味というでもない。そういった執務室の大窓の正面に、空を背にして机に座る男がいた。

「常盤准将、お茶をお持ちしました」

 部下と思わしき女性がお盆に、まだ淹れたばかりの湯気がたつティーカップを乗せて執務室に入ってくる。
 女性が軽くお辞儀をして顔をあげた瞬間には、もうティーカップはお盆の上ではなく、机に座る、常盤光多の手の中にあった。
 腰掛けたまま書類に目を通しつつ、運ばれてきたお茶に口を付ける。その動作をみて、お茶をもってきた女性は今度は深くお辞儀をした。

「それでは失礼いたします」

 そのまま執務室をでていこうとした女性だったが、光多が書類から目を離して自分を見ているのに気づいて立ち止まる。

「なにか…?」

「…青雉を呼んでくれないか」

 普段から口を開かない光多が口を開いたことに少し驚いた女性だったが、

「は、青雉大将…ですか。畏まりました。すぐにお呼びいたしますね」

「頼む」

 女性はもう一度深くお辞儀をすると、今度こそ執務室を後にした。




 みょうじなまえは、今現在船の中を徘徊している。
 なまえの乗せてもらうことになったこのエドワード・ニューゲート率いる白ひげ海賊団の船、モビー・ディック号はものすごく大きい。だから探せば何か一つくらい仕事があると思い、暇をもてあましていたなまえは仕事を探しにでた。しかし、行く先行く先で何か手伝うことはと聞いても、これは自分の仕事だから、人手は足りてるから、お嬢ちゃんじゃ無理だから、と、悉く断られ続けて今に至る。
 この船の仕事がありそうな場所はもう虱潰しにまわった。なのに、仕事(という名の暇つぶし)もない。あまりの暇さに一度自分にあたえられた貸し部屋、といってもナースのお姉さんたちの共同部屋のスペースを貸してもらっている、その部屋まで戻って元々それなりにきれいに整頓されていた部屋をさらにきれいにしてきたくらいには暇である。

「うぅ…なんだこの状況は!」

 まさか暇であることを嘆く日がくるとは、現代の日本でそれなりに多忙な日々を送っていた女子高生のなまえには想像もつかなかったであろう。
 しかしなにかをしていないといろいろなことを考えてしまって落ち着かないのもまた事実、なまえは一度座り込んだ階段からすっくと立ち上がると、もうこの際歩き倒れるまで歩き倒してやろうという覚悟で足を前に進めたのだった。




 医務室、食堂、広間、厨房、なんだかよくわからない部屋、倉庫、操舵室、宝物庫(鍵がかかっていないことになまえは驚愕した)、洗濯室、大浴場、清掃用具室、宴会場、なまえは一度通った道をもう一度歩き続け、そしてついにまた甲板へとたどり着く。
 しかし甲板はなまえが船内の旅にでる前とは様子が違っていて、たくさんの人がときおり声をあげて、野次のようなはやし立て、そしてなにかを囲んでいるようだった。
 なまえは不思議に思い、甲板の上からその一段下の甲板を見下ろす。
 中心に二人、片方は剣をもった男、片方はなんと丸腰しかも上半身は裸という無防備すぎる男――つまりはエースが向き合っていた。まわりの人だかりは下の甲板の方が多いが、その二人を中心とした20mくらいの円の中には誰もいない。
 そして群衆の中からまた別の男が一人でてきて、二人に一言二言いうと、剣を持った男は構え、エースのほうはというと、頭にかぶったテンガロンハットをくいっと少し上に押し上げただけである。
 その光景に焦りを覚えたなまえは近くにいた船員に、

「あっあの!エースさんなにも武器をもっていないみたいなんですけど、不利…っていうか危ないんじゃないですか?」

「あ?何言ってんだ。エース隊長相手に剣一本だぞ?相手のほうが不利だし危ないに決まってんだろ!」

 そして「はじめ!」と短く一人の男がいうと、剣をもった男はエースへと斬りかかっていった。
 なまえは思わず短く悲鳴をあげ、俯いて目をとじてしまった。が、船員たちの歓声がなりやまないのを不思議に思い、おそるおそるという体で目を開けてみる。すると、たしかに真正面から斬られたはずのエースには傷一つついてなく、相手の男の持っていた剣がぐにゃぐにゃになって放り投げられて、そして相手の男もぼろぼろになって地面に伏していたのだ。

「何が…?」

「見てわかんねぇのか?エース隊長の勝ちだ!ほらな、やっぱりダックにゃ無理だっつたんだよ」

 最後の方は別の船員へかけた言葉だったようだ。なまえはよく意味が分からず、それでも勝ち誇ったように腕を高らかにあげるエースを見てるとなんだかこちらまでうれしくなって、笑顔がこみ上げてくる。するとエースがふとなまえのことに気づき、思い切り手をふってきた。

「おーい!見てたかー!?」

「えっわっ、わたし!? ―――み、見てました!目つぶってたけど!」

 いきなり渦中のエースに話しかけられたことになまえはドギマギとし、思わずいらないことまで口からこぼしてしまう。そんななまえをみてエースは一瞬きょとんとし、それから大きな笑い声をあげた。

「見てたのに目ェつぶってたのかよ!なんだそりゃ!」

 エースは笑い声を上げたままなまえの方へ歩いてくると、自分のかぶってた帽子をなまえにかぶせる。

「今から昼飯の時間まで相手してやることになってんだ。よかったら見ていけよ! 今日は日が強いからそれ被っておけな」

 思わず頭に乗っているオレンジ色のテンガロンハットの鍔を、両手で握りしめてしまう。
 エースの思わぬ優しさに、なまえは下の甲板に降りていってしまうその背中に向かってありがとうと小さな声で叫ぶのが精一杯だった。




 なまえは甲板の日陰で微睡みの中にいた。
 先ほどまで円の中心にいたエースは選手交代とばかり人混みの中へ入っていき、それっきりみていないからきっと休憩をしているのだろう。もう少ししたらお昼ご飯に迎えに来てくれるのかもしれない。それにしても日が強いなあ。
 そんなことをぼんやり考えていると、いつのまにか手合いは終わったようで、ぞろぞろと人が食堂へと移動しはじめた。もう太陽は真上から少し傾き始めた頃合いで、船員たちの空腹も限界に達していたのか移動がはやい。あっというまに甲板には数えるほどの人しかしなくなり、その中にエースをみつけた。
 エースはなまえに手を振って、まわりにのこっていた船員に一言二言言うと、なまえのところへ走ってやってきた。
 そして満面の笑みでこういったのだ。

「おまえ、この世界の人間じゃないんだって?何でこの船に乗ってるんだよ」




 なまえは呆然とした。
 さっきまでそんなこと、なにも、なにも、言っていなかったのに。どうして、なぜ、どうやって、いつ知ったのか。キーンという耳鳴りが聞こえて、目の前が白くなり始めた。
 自分がこの世界の人間じゃないことがばれたことでこんなに焦っているのではない、とくらくらしながら考える。これは、まぎれもなくエースに拒絶されたことに絶望しているのだ。
 なまえは何か言おうとするが、唇が震えて声がでないし、エースの顔はだんだん視界からぼやけてきている。まだ何かをいっているようで唇が動いているが、それを聞き取ることができない。
 触れてしまえば、すべてわかる。でもそんなことをしたら、してしまえば、したとしても、もう何もなかったように元には戻らないし、さっきの発言がなかったことになるわけではないとなまえは知っている。
 どうしたらいい。
 なまえはほとんど見えなくなった視界が、涙でぼやけるのを感じた。拒絶されるのだけは、この世界でひとりになるのは、いやだった。思わずみえなくなったエースに手を伸ばす。

「―――おい、…ろ!起きろよなまえ

 と、そこで急に視界が鮮明になった。自分は白い天井を見上げていて、その白い天井が涙でにじんでいる。息をするのがとても苦しくて、そこでやっと呼吸が乱れていることに気がついた。
   いつからが夢だったんだろう。
 なまえが涙の乾き始めた視界で横をみると、エースが心配そうな顔でベッドの隣に設置された椅子に座っていた。

「え…あれ…?ここ…」

「医務室。手合いが終わって戻ってみたら、おまえがぐったりしてたからつれてきた。貧血だとよ」
「そこの隊長さんがおまえさんを抱えて飛び込んできてたとき、それはもうすごい形相だったんだぞ。ああ、おもしろかった!」

「うるせェ黙れ!」

 エースは会話に入ってきたドクターにまるめたタオルを投げつけると、なまえに視線を戻して、なまえのきょとんとした表情をみるや否や、額に掌をあてて、

「はああぁぁあぁあ……」

 と、ものすごく盛大な溜息をついた。
 そんなエースを横目にみながらなまえがむくり、と起きあがると、

「あれは自分の隊のヤツが怪我したときよりひどい顔だったんじゃないか、エース?」

「うるせェ」

「さっきも言ったとおりただの貧血だ。今日の日差しは強かったからなあ。帽子を被っていたようだけど、水分補給もちゃんとするように」

 そういって机の上の紙に何かを書き込んでから立ち上がるとなまえたちのほうへと歩いてくると、手に持っていたマグカップをなまえに渡す。
 なまえはそれとともにとりあえず出された薬を飲み込むと、もう昼食にいきなさい、と言われたので、エースと一緒に医務室を後にすることにした。




 医務室をでてから食堂へと続く廊下を歩いているときのことだった。

「…さっき」

「はい?」

 エースが小さくつぶやいた言葉がよく聞こえなくて、なまえはエースを見上げながら聞き返した。エースはバツが悪そうに目をそらしているので目が合うことはなかったが、さっきの夢が一瞬頭をよぎったなまえは肩をほんの少しこわばらせる。

「泣いてただろ、さっき」

「え…?あっ…」

 それは夢の終わりだった。
 涙の向こうにエースが消えていって、それに手を伸ばそうとして目が覚めたのだ。急になまえまでバツが悪くなり、ぱっと下を向いてしまう。
 二人の歩む音だけがそこに響いていた。

「あー…なんていうか、前にコウキと一緒におまえの過去についていろいろいったけど、思い出すのがつらいなら思い出さなくてもいいんだからな」

「え?」

「夢は心の鏡って言うだろ。思い出したくないことでも、目を背けたいことでも見ちまう。だから、もしかしたらって思ったんだけどよ」

 エースは自分を気遣ってくれているのだ。そして、心の鏡。ということは、あの出来事は、自分が心の中で起きる得ることだと思っている?いつか対峙するべき問題だと。そして、エースに拒絶されただけで、あんな死にそうなくらい苦しい思いをするのだと。
 エースが気遣ってくれて不謹慎にもうれしい気持ちが生まれたが、それと同時に不安も膨れ上がった。

「まあ、そんだけだ。あと、ジジィの言うこたァ忘れろよ」

 なまえが思考している間に、どさくさに紛れてエースがそんなことを言うものだから、なまえは思わず反射的にこう答える。

「……いやです」

「ハァ!?」

 エースが自分を心配してくれた。話を聞く限りではものすごく。どうしてだか、その事実をたとえ嘘でも忘れたくなかった。どうしてだか、大切にしたく思ったのだ。

「普通の女が甲板で倒れてたら誰だってそうすんだろ!ただでさえこの船にゃ倒れるような女なんてそうそう乗ってねーし、男共はそもそも倒れてもほっときゃ直るけどよ、おまえはそうじゃねーだろ」

「あ……そう、ですよね」

 なまえは思わず上げかけていた視線をまた下に落としてしまった。この時なまえがエースの顔を見ていれば少なからず救われていたかも知れないが、なまえはさっきの夢のこともあって、思考がネガティブだった。
 ”わたしだから”助けてくれたと思って、舞い上がってた。何を思い上がっていたのだろう。わたしはただ、成り行きで、この船に乗せてもらっているだけなのに。
 なまえは、また胸になにか重いものがしずみ込んでくる感覚を覚えた。

20111218 織間