ふわあ、と思わず手をやるのを忘れて大きな欠伸をしてしまった。幸い周囲の人は校門に向かってまっすぐ前をみて歩いていたため、目撃はされていないようだ。欠伸って脳に酸素が足りないとでるってきいたことがあるけれど…、と薄ぼんやり考える。真偽のほどはまだ中学生のみょうじなまえには判断できなかった。
じとじとした暑さで首に張り付く髪の毛を掬って、背中へ流した。
「おはよう、黒子くん」
「おはようございます」
言われながら鞄を机に置いて、椅子を引いて座る。筆箱やらメガネやら1限目の用意やらを取り出して、鞄をしめて、机の横に降ろした。
そこでもう一度欠伸がおそってくる。
今度はちゃんと手を当てる。隣に黒子がいるから。
少し潤んだ視界で隣をみると、本を読む手を止めた黒子が首を傾げてこちらをみていた。
「よく眠れなかったんですか?」
「そうなのかもしれない…」机に突っ伏せるようにと乗っているものを端に寄せて、腕を枕にして頭を乗せる。「時計よく見てなかったから覚えてない。気がついたら朝だった」
「相変わらずマイペースですね。…おやすみなさい」
黒子はそう言いながら、今まさになまえの机から落ちそうになっている筆箱とメガネケースを自分の机の方へと移動する。
「ありがと…1限の前に、起こしてくれたらうれしい」
「わかりました」
優しく響く抑揚のない、男子にしてはやや高めのアルトとか、かすかに流れてくる呼吸の音とか、静かに規則正しくページをめくる音とか。黒子くんの隣はものすごく落ち着く。
なまえはだんだんとしずみ込むような意識の中でそう思った。
詰んだ、と黄瀬涼太は思った。
昨日の放課後にプールでの邂逅をはたした少女の名は覚えている。特徴的ではなかったが、一応外見もまだ鮮明な記憶である。
だから1限目の休み時間から放課後の部活前までの開いた時間に、すべてのクラスをまわってみたのだ。
そう、すべてのクラスを。
にも関わらず、彼女の姿はどこにも見えなかった。本来自由な休み時間なため教室に確実に止まっているという保証はあるわけではないのだが、捜索1日目にしてここまで空振りをしてしまうと、なんというか、些かテンションが下がる。
部活がはじまったらはじまったで周りに視線を配る余裕はなくなるし、ほかのことを考えている暇もないほどハードな練習のおかげでそのことを忘れていたが、すべて終わった後にノックバックしてきた脱力感は普段より割り増しだった。
「どうかしましたか、黄瀬くん」
「………黒子っちぃ」
バスケ部に入ってから自分の教育係をつとめている黒子とは、自然と一緒にいることが多かった。それは教育係という役目を終えてからも必然的に継続して、帰り道に一緒にどこか寄り道するのはほとんど黒子と、その周りの人間になっている。
黒子の好物であるシェイクを得るためだけに青峰を伴ってマジバに寄り、そのまま少しの間だけ居座ることにして4人席を占領していたときのことだった。
あまりの疲労感と脱力感から机に突っ伏していた黄瀬を見かねた黒子が訪ねてきて、その何気ない優しさが今の黄瀬には妙に沁みた。
「どーせくだらねぇことだろ?」
「…決めつけないでほしいっス…」
黒子の隣に陣取る青峰が頬杖をつきながら心底興味がなさそうに言った。
いつもの黄瀬ならぎゃんぎゃんと形容するのがふさわしい勢いで反論するが、今日はどうもその元気さえ残っていないようだった。そんな黄瀬を不審に思ったのか青峰も首を傾げる。
「人を探してるんス…」
「………それは…いきわかれた母とかですか? いきなりハードルをあげられると戸惑ってしまいます」
「なんでそんな深読み!? 違う違う、同じ学年の女の子なんスけど」
机の上で手を組み合わせながらその上に顎を乗せる。
黒子はシェイク、青峰はバーガーのセット、そして黄瀬はなにも頼んでいないため机上のバランスが少し悪い。自分も何か頼んだ方がよかったのかな〜と思いながらも、ファストフードは基本的に控えるようにしていたことを思い出してため息をついた。
「おまえが女子のことで悩んでるとなんか…気持ち悪いな」
「なんスかそれ〜! なんでそんな印象なんスか、俺だったふつうに悩んだりするっスよ?」
頬杖を崩して再びぐだーっと机に突っ伏す。
青峰の思考回路はよくわからない。たぶん、普段からまわりに居る女子だとかをみての率直な感想なのだろうが、それにしてもなぜ気持ち悪いという点にいたるのか。
「まあ、黄瀬くんがどうこうとかはおいておいて、同学年ということのほかにわかってることはなにもないんですか?」
冷静な黒子の相づちのおかげで、やっと話が進みそうである。
昨日しかと聞いて得た情報を頭の中で反復してから、口に出す。
「名前、名前ならわかってるっス。みょうじなまえって子」
身を起こして二人の表情を見る。
「…………」
「…………」
と、二人ともきょとんとした表情で目をみはっていた。
バスケ以外ではまったく息の合わない二人の貴重な一場面に遭遇した珍しさも去ることながら、その奇妙な反応に首を傾げる。
ほんの数秒黙っていた黒子が、口を開いた。
「みょうじさんでしたら僕の親友ですけど」
「へえ〜、黒子っちの親友!てことはクラス知ってたり…親友!?」
「はい。たぶんこの学校一番のマブダチってやつです」
表情をいっさい崩さないまま、無表情で黄瀬を見上げながら黒子は言った。
「ちょ、ちょっとまって…マブダチって言い方どうなんスか…いやそれより、親友?」
「はい」
「親しい友と書いて?」
「しつこいです。そうっていってるじゃないですか」
眉を潜めてそう言いながら、ちゅーっと手に持ったバニラシェイクを吸う。出会った当初から謎の多い人物だったが、まさか親友として女子の名前を上げるとは。
基本的に男女間に友情が成り立つことはあり得ない、とそう思っている黄瀬は納得できないが、黒子がその言葉を撤回する様子は全くない。
「そうか、黄瀬はみょうじのこと知らなかったのか」
「青峰っち」あまりにも困惑気味な会話の行方を案じたのかそれともただ単に会話に入ってきただけなのか判断しがたいが、助かったと黄瀬は話題を青峰に振る。「青峰っちは知ってたんスか?」
「お〜、1年のときからテツにべったりだったからなぁ。たぶん今のバスケ部で知らないのとか1年とお前くらいじゃね?」
「べ、べったり、スか…」
なぜかは知らないがショックを受ける。黒子が女子とべったりだったのに驚いているのか、それともその相手がみょうじなまえだったことが衝撃なのか、判断がつかない。もしかしたら両方なのかもしれない。
「おれ達が何話しかけようともテツ以外にゃ興味ねーって感じだったぞ。いっそすがすがしいほどに」
「アウトオブ眼中でしたね」青峰の方をみながら何食わぬ顔でさらりと黒子がいう。そのまま黄瀬へ向き直り、「で、みょうじさんがどうかしましたか?」
そう問いかける黒子の表情は普段と変わらない無表情である。にも関わらず、なぜか、雰囲気がどことなく貫禄のあるような、警戒心がにじみでている、ような―――。
「生半可な気持ちで手を出すようなら僕は黄瀬くんを―――」
「わーっいわなくていいっス! なんかものすごくいやな予感がする!黒子っちにいわれたら一生立ち直れなさそうなくらいのダメージを受けそうなきがする!」
黒子は無表情で辛辣なことをいうことに定評がある。周囲の人間には、いつでも冷静で冗談が通じないという解釈をされているようだが、それは思慮深くて誠実である黒子の長所として黄瀬は認識している。しかし、今は、ヒットポイントがレッドゲージに突入している今だけは、その辛口評価を受け止めきれる自信がなかった。
「………どうしてみょうじさんを?」
ふう、と一息ついた黒子がストローに手をかけながら黄瀬に訪ねる。
その未だに自分のことを疑っている黒子の視線を受けながら、黄瀬はへらりと笑った。
「いや、深い意味はないっス。ほんとに。ほんとっスよ!?」
「やめてやれテツ…」
へらりと笑ったのを追いつめるかのように強くなる黒子の視線を受けて、黄瀬はほとんど涙目になりながらそう叫んでいた。それを見かねた青峰が思わず助け船を出すほどに。
「ただ昨日の放課後―――ああ、そうだ、みょうじさんのことでもうひとつ聞きたいことがあったんス。あの子―――」
みょうじなまえを探している理由の一つは、ただ単にいろいろなことを秘密にされたことへの反発心というか、リベンジ精神とか、そういうもの。そしてもう一つの理由は、昨日の放課後の出来事のこと。顔を突っ込むつもりは毛頭なかったが、後学のことも兼ねて状況だけは把握しておきたい。
「…みょうじさん」
「そう、みょうじさんが…へ?」
小さくつぶやいた黒子に続いて発しようとしていた言葉を飲み込んでしまう。黄瀬が黒子の顔に視線を戻したとき、黒子の視線は黄瀬ではなくまったくあさっての方向へと向けられていたからだ。
「めずらしいですね、ひとりですか?」
「ううん、友達と来たよ。ごはんだけ食べてすぐ帰るつもりだった。だけど、黒子くんが見えたから。こんにちは青峰」
黒子曰く親友の間柄の二人の会話はどんなものかと息を潜めて聞いてみれば、なんてことのない世間話みたいだ。まだ学校でのなまえをみたことがないから断定できるわけではないが、たしかに、黒子の前ではいくらかリラックスしているのかもしれない。出会った状況が状況なだけに判断ができない。
「前から思ってたけどおまえ、なんで俺だけ呼び捨てなの?みんなくんとかさんとか付けてんじゃん」
「なんとなく」
「テキトーだな」
とかいう会話を続けているなまえと青峰をみながら、黄瀬は完全においていかれた、と思った。
聞こうとしていた質問も、本人を目の前にしては聞きにくい。なまえのプロフィールは粗方把握できたから、第一の目的も達成した。しかし、なんだこのまったくの蚊帳の外っぷりは―――。
「みょうじさんこんにちは…っス。きの」う、大丈夫だったっスか? とできるかぎりの笑顔を携えて強引に話に割り込もうと、なまえの顔を見上げると、ものすごい顔で―――といっても、黒子と同じように明確な変化があるわけでもなく、しかし黒子と違ってずっと一緒にいたわけでもない黄瀬にもわかるくらいに―――すごい顔で、黄瀬を見下ろしているなまえと目が合う。
「…黒子くん。ちょっと黄瀬涼太借りる」
「あ、はい。どうぞ」となぜか自分の身柄の行方が目の前で勝手になまえに移った。というか、借りるとかいっておきながらなまえは何も言わずに、視線のひとつも黄瀬にやらずに、すたすたと歩いていってしまう。
「なにしてるんですか、黄瀬くん」
「え、いやだって…え?」
「あの“黙ってついてこい”って書かれた背中が見えないんですか? みょうじさんああ見えて怒ると怖いですよ」
「ええ!? あれついてこいっていってるんスか!?」
わかるわけないっス!と席をあわてて立ち上がり、もうすでに店のドアに手をかけているなまえを追って走り出した。
つれていかれたのはマジバに併設されている駐車場の奥まったところだった。この暗さといい人気のなさといい、女の子にこんなところに呼び出される理由なんて十中八九―――とかいう考えが浮かばなかったといったら嘘になる。しかし目の前のなまえが纏う雰囲気をみたら、そんな考えは消し飛んだ。
「黄瀬涼太」
「は…ハイ」
うつむいたなまえの表情が見えない。思わず敬語になってしまう。
「昨日、放課後、みたことは」なまえは言い聞かせるように、ひとことひとことを自分で確かめるようにことばを吐き出す。「黒子くんには、いわないで。おねがい、」
手が震えていた。黄瀬は思わず反論してしまう。
「な…、なんでっスか! 確かに女の子同士のいざこざに男が口だしてもこじれるだけだけど、何も言わないってそんなの黒子っちだってしんぱ、えっ」
胸ぐらを掴みあげられた。
なまえは黄瀬より30cm近く背が低いにも関わらず、その下から睨みあげてくる迫力に息をのんで、思わず両手で降参のポーズをとってしまう。
上目づかいってふつうにおいしいシチュエーションのはずなのに、なんだこの緊張感。
「もし黒子くん、いや、誰かに他言したら、絶交。末代まで呪う」
「なんスかその超一方的に重い条件な感じ!?」
これは一体どうすればいいのだ。
彼女は誰にも言うなという。それはあの状況に彼女があることを、彼女があんな目にあっていることを、知っているのに放っておけということだ。
女の子同士のいざこざは放っておくに限る。ということは重々承知している。でも、やはり、その実状をしっているのと、現状をしりながらもなにもしないというのは、気が引けるのだ。そしてその当事者が、知り合いの親友だったりした場合は、とくに。
「大丈夫なの。思ってるより事態自体は重くないから」
「それってどういう、」
「これ以上目立ちたくない」
胸ぐらを掴みあげたままだったため、なまえの表情がダイレクトに目に入った。
眉根を寄せ、懇願のような表情で見上げている。
「納得いかないのはわかってる。でもお願い。言わないで。黒子くんには」そこで一回言葉を区切り、胸ぐらを離して、俯く。「もう、迷惑かけたくない」
黒子の言っていた“親友”という言葉に嘘があるようには思えなかった。それはいったのがほかの誰でもない、あの冗談嫌いな黒子がいった言葉だからだ。程度の違いはあるかもしれないが、きっとふつうの“友人”に収まらない信頼関係があるのだと。
でも、だったら、どうしてこの少女は、こんなにも―――。
「それだけ」
一言呟いて次に黄瀬を見上げた時には、もういつもの(と断定するのには多少語弊がありそうだが)なまえの表情に戻っていた。
黄瀬がその頼みの返事をするのを待たないで、というか、待つ気はさらさらなかったように、小走りに店の中へ戻っていってしまった。
なんだっていうんだ、一体。
120801 織間