「ほんとうにご迷惑をおかけしました」

 なまえが倒れてから二日後の昼間。
 もう二度と来ない、来たくないと思っていた草薙のバーに、なまえは訪れていた。座るように促されて、うしろめたさから断ることもできずにソファに腰掛けている。
 昼間なので、タケルは幼稚園にいっている。家の用事はあらかた済ませてきたがまだまだすることは残っている。ここを訪れることはタケルには告げていないため、なるべく早りたい、と俯いたまま前を上目遣いで盗み見た。

 「いや、迷惑とかじゃないよ全然。困ってるときはお互いさまだろ?」なまえの向かいに座った十束は整ったかんばせに最高の笑顔を浮かべながら言った。「貸し1ね」

「………うん………」

 ちゃっかり貸しにしてるくせに人の良いフリしちゃって…と内心不満だらけだったが、なまえに言い返す術はない。

 倒れた翌日、たっぷり昼まで眠りこけたなまえは、自分が着替えているのとタケルがどこにもいないことにだいぶ混乱した。
 なんとなくうまく動かない体を転がすようにして端末を捜し当て、シホに連絡をいれるとだいぶ不機嫌な声で「帰るなら帰るで連絡いれなさい!心配するでしょうが!」と怒られた。勢いに押されてすみません、と謝って、それから続けて二三注意を受けて、最後には平謝りしながら通話を切るハメになった。
 そして、通話を切ってからなにも肝心なことを聞いていないことを思い出したが、同時に昨晩十束のようなひとが家にきて、なんか自分のことを着替えさせちゃってくれたり、看病のようなものをしてくれたような気がしてきて、いやいやまさか、と自分で自分に突っ込みをいれたところで端末が着信を告げた。
 完全に不意をつかれて飛び上がりそうになったものの、シホが折り返してきたのかと見てみれば、そこには見慣れない―――見た覚えはあるが―――番号だった。

 ―――あ、なまえちゃん。起きてたの?

「…多々良くん?」

 ―――うん。タケルくんのこと心配してるかも、って思ってとりあえず連絡だけ入れておこうと思ったんだけど。具合、どう?

 電話の相手は案の定十束多々良だった。朗らかな声にどこか安堵感を覚えて、それからすぐに先ほどのひっかかりを思い出す。

「多々良くん、もしかして、昨日うちに来たりした…?」

 ―――え?うん。タケルくんがなまえちゃん倒れたーって呼びに来たから。

 やっぱり…!と、記憶の通りならとんでもなくあられもない姿を晒してしまった羞恥と、頼らねばならなかった情けなさに、思わず床に手をついてうなだれる。
 もうすこし感傷に浸っていたい気持ちだったが、聞き捨てならないことを思い出して電話口に飛びつき直す。

「タケル、そっちにお世話になってるの?」

 ―――そうそう、勝手にごめんね。なまえちゃんが起きたなら、タケルくん送り届けようかな。タケルくん、帰る準備してー!

 はぁい、と、毎日聞いてるにも関わらず懐かしい気のするこどもの声が聞こえて、少しほっとした。

「あっ、まって、わたしが迎えにいくよ!」

 ―――なにいってんのさ、なまえちゃんは病人なんだから、おとなしくしてなよ。

 「で、でも」となおも食い下がろうとしたなまえに、電話口からでも十束の曇りない笑顔がわかるような口振りで、

 ―――家の場所、もう知ってるし。ね?

 こう言われてしまっては、もうなまえに逃げ場は無かった。

 目の前でにこにこしている十束をみて、なまえは思わずため息をついてしまう。あっと言う間に端末の番号から現住所までバレてしまった。
 ああいう風にいわれてから、タケルを送りに来た十束に、「今度はなしたいことがあるんだけど」とかいわれてしまえば、自分から赴くしかない。
 下手にタケルがいるときに訪ねてこられて、変に情報が伝わってしまったらと考えたら、自分から訪ねる方が遙かに確実で安全だからだ。

「今日はタケルくんは幼稚園?」

 草薙がそういいながらなまえの前にカップを置いた。ティーもでるのか、となまえは変なところに感心をする。

「ええと、今日は、3時くらいまでだと思います」

 きっとなまえが倒れてしまった以上、タケルはしばらくまっすぐ帰ってくるようになるだろうと考えたなまえは、そう告げる。と同時に、あと1時間半もある、ともうすでに耐え切れなさそうなこの気まずさをどうしたものかと俯いて、ティーカップと見つめ合った。
 あたりまえだが自分から話し出そうとしないなまえの向かいのソファに、草薙も腰掛ける。なにこの状況、二者面談みたい、となまえは心の中で自嘲気味にわらってしまった。

なまえちゃん、俺たちが聞きたいこと、わかる?」

「わかりません」

 間髪入れずにそう答えたなまえに、目の前のふたりは意外そうに目を見開いた。ふたりに対してこんなに直情的ななまえは、記憶のなかにいない。
 怯みかけた草薙は、十束が口を開く前に問いかけた。

「…タケルくんの父親と、結婚は?」

 その草薙の目をみてなまえは心の裡でため息をつく。
 ―――草薙さん、何か知ってる。絶対鎌掛けに来てる。
 どこでなにを知ったかは断定できないが、タケルがそういう話をするとは思えないし、なまえの知り合いのなかで草薙と接触を持ちそうな人物かつ悪気はないのに口の軽い子といえば、瑞穂くらいだろうと適当に目星をつける。
 取り繕ってもすぐにバレることなので、ここは大したことがないように肯定したほうがいい。

「してません。とっくの昔の別れましたので」

 あっさり認めたなまえに、十束と草薙は顔を見合わせる。

「タケルを生む前のことですから、タケルもまったくしらないひとです。どこで知り合ったとかは、もうわすれました。なまえもおぼえてません」

 さらになまえはあたりまえのように滅茶苦茶なことつけくわえるものだから、草薙はぽかんとしてしまう。
 十束といえば黙りで何かを考えているようで、喋るつもりはないらしい。そう判断した草薙が、いやいやいや、と取りなすように言葉を挟む。

なまえちゃん、そんなこと、通じると思ってるん?」

「通じる通じないじゃなくて、本当のことなんだもの」

 もうここまで来たら、いけるところまで行ってしまえ。
 戻れなくてもいい。戻るつもりはもともとない。

 「じゃあ聞くけど」妙にはっきりと発音した十束が、なまえをまっすぐに見つめる。「タケルくん、こんどの20日で6歳なんだって? こんなこと、いいたくないんだけど、ハッキリさせたいからいっておく。どう計算しても、タケルくんができたのは、キングとつきあってるときじゃないの? でも、キングのこどもじゃ、ないんだよね?」

 ―――それが意味するところはつまり。

「っ………」

 違う、ととっさに言おうとして、飲み込んだ。否定をしたら、それは周防とのことを認めることになる。でも、肯定をすれば、なまえを支えてきたものは、すべてなくなる。
 さっきいけるところまで行ってしまえと思ったではないか。なのに、やっぱり揺れている。
 揺れたくない、迷いたくないのに、なまえは肯定も否定もしたくなかった。
 ここで彼らを突き放してしまえば、もうばれることは一生なくなるのに。突き放す方法がこんなにも明確に提示されているのに。なまえはそれに従えない。
 ―――いったいなにをどうしたいの、なまえ
 心のなかでつぶやいている傍観者の自分でさえ、呆れたような声を出した。

「もうええよ」

 沈黙したまま硬直した空気を叩き割るように、草薙がそういった。その許容とも諦めともとれるひとことに、なまえはぐっと口を引き結ぶ。
 完全に、嫌われてしまったかもしれない。自分の世界を、彼らを守るために嘘をついているのに、いったいどうしてこんなことになってしまうんだろう。
 なまえが襲ってきたやるせなさに耐えていると、終わったと思っていた草薙のひとことが続く。

「もうええから、上行って尊と話して来てくれへん?」

「―――はい?」

 何かの聞き間違いだろうかととぼけた返事をしたなまえを無視して、十束が笑顔で草薙に答えた。

 「あ、それがいい」まさに妙案、と手を叩くような勢いでいってから、なまえのほうをみてにっこり笑う。「ちょっと話してきてよ、キング最近元気なくて」

 「それとこれとわたし、関係あるの?」なまえは唐突に沸いて出た周防訪問計画に頬をひきつらせた。「ていうか、話すことなんて」

「まあまあ」

 草薙がそういいながら、目の前にあったティーカップを自分の口に運ぶ。「いやいや、草薙さんなに優雅に飲んでるんですか、た、多々良くん、ちょっと、どこさわってんの!?」立ち上がった十束はなまえの真後ろまで来ていて、えいとなまえの両脇を持って立ち上がらせる。

「え、ええ、―――ちょっと!」

 そのままぐいぐいと押されるままに店の奥のドアの向こうへと押し込められる。閉められてしまったドアをうらめしげに睨むが、たぶん開けてくれないだろう。
 あのふたり、急に強引になった気がする。再開した当初は、なまえにこんなことをしたりしなかったはずだ。
 どうしてだろう、と考えながら、なまえは仕方なく目の前にあった階段を上りはじめた。
 ―――いや、話せ、って、なにを話せばいいのだろう。なにを話しても地雷に触れてしまうような気がする。
 なまえはもう周防とあまり接触したくなかった。これはなまえの防衛本能のようなものだ。
 つい先日、バーで一目見たときから、いや、十束多々良に遭遇してから、なまえが過去に思いを巡らすことが多くなった。こちらに越してきて収入がすこし安定したり、タケルがひとりで留守番をしっかりできるようになったりといった安堵から余裕ができたせいで、他のことを考えるようになってしまったのかもしれない。
 なまえはそれが怖かった。自分の心の、周防たちが占める割合の大きさに気づくたびに、迷ってしまう。だから、もう、関わらないでほしいと願っていた。
 暗澹とした思いを胸に抱きながら階段を上りきる。そして指示されたドアに向かって、深呼吸。
 ―――タケルに構ってくれてありがとう、と、あと、なに言えばいいんだろう。お、おっきくなったね?いやいや、親戚じゃないんだから、っていうか、そんなフレンドリーにしてどうするの。
 ノックしようと手を用意してから、そうやってうだうだ考えているとき、突然ドアが内側から開いた。
 えっ、と足を一歩引いたが遅かった。
 ゴン、という鈍い効果音を発しながら、なまえはドアに激突する。

「うっ………」

 周防にとっては普段通りにドアを開いたつもりだったが、いかんせん素の力が強い。なまえは涙が出てきそうなくらいの痛みに、うめきながら額を両手で押さえた。

「…おい」

 周防はドアを開いた直後こそなまえがその場にいたことにかなり驚いたらしかったが、言葉を発することもできないくらい痛がっているなまえをみて、すこし眉を寄せながら声をかける。
 呼びかけられたなまえはびくりと肩を揺らすと、パッと顔をあげる。しかしまだ両手は額に当てられたままだ。

「ひ、えっ」

 ドアの目の前に立っていたなまえと、ドアから出ようとしていた周防は必然的に近距離で見合うことになった。その予想外の近さになまえは一歩、二歩とたたらを踏むように後退してしまう。
 そしてそれをせまい廊下でやれば壁はすぐそこで、必要以上に距離をとろうとしたなまえはガツンと後頭部をも強打した。泣きっ面に蜂、という単語が頭の中でなまえを指さして笑ってる気分だった。
 そんななまえになにを思ったか、周防も部屋から一歩二歩と歩み出ると、そのまままっすぐなまえが背を預ける壁の方まで直進する。

「あの、周防、くん?」

 取った距離が、あっというまに詰められて、目の前には周防がいた。ほとんど目と鼻のさきのようなもので、逃げ道を塞がれている訳でもないのに逃げ出すことができなかった。
 近づいたくせになにもいわない周防を不思議に思ったなまえが絞り出した“周防”という呼称に、周防は目を細める。

 「…?」俯いていたなまえが、そろりと窺うように見上げるが、廊下の電灯の逆光を受けてか表情が読みとれない。「な、なにか…」

 なまえがおそるおそる訪ねようと口を開いたのと同じタイミングで、ゆっくりと周防がなまえのほうへと屈みこむ。
 近づいてくる周防の金色の瞳を、ただじっと見つめていた。
 ―――相変わらず、きれいな瞳。
 そんなことを頭のなかで誰かが呟いて、そこでなまえはハッとなった。
 ―――いや、ちがう、これは!
 気がついたときにはあまりに顔が近すぎて、あと十数センチというところ。
 なまえはたぶんこれ以上は無理だというくらいの俊敏さで、自分の両手の平を周防のほうへ向ける形で口の前に持ってくる。

「………」

 ほんの十数センチというところで進路を阻まれた周防は、自分の口がなまえの手に完全に塞がれていることに抗議するように、じっとなまえをみつめる。

「………ななな、なに、なにしようとしてるの、周防くん?」

 自分のてのひらがなかったらもうすでに触れているであろう周防の唇を意識してしまって、なまえの声がどもった。
 相変わらずどこか不機嫌そうな周防と、できるかぎり後頭部を壁に押しつけながら距離をとろうとするなまえが膠着状態のまま見つめあうこと数秒。
 意外と睫が長い…と必死にほかのところに意識を巡らせていたなまえは、れろり、という自分の手のひらを襲った異様な感覚にとびあがった。

「ひっ…!?」

 な、なめ、なめ、舐めた!?いま、てのひら、舐めたこのひと!?
 てのひらを舐められるという人生ではじめての体験をしたなまえは、考えるより早く周防の口から手を離した。
 ―――笑ってる。
 口元が明らかになった周防は、瞳にけだるげな色を残したまま、口元だけで笑ってる。
 ―――なに考えてるの、尊。
 6年という時間はあまりにも長すぎた。周防がなにを考えているのか、まったくわからない。どうして自分にこんなことをするのかも、どうしてこんな表情を浮かべているのかも。
 なまえが困惑していると、周防の表情はいつのまにか変わって、真剣なものになっていた。
 屈んだままの姿勢だった周防が、とん、となまえの後ろの壁に右手をついた。その小さな音にさえ、なまえはびくりとふるえる。

なまえ

 低い声で呼ばれた名前に、心臓がいっそとまってしまいそうなくらいにうるさく鳴った。
 なんで、なんで、どうして、どうしてまだそういう風に呼んでくれるの。なんで、あのころのままの、呼び方で。
 受けた衝撃が大きすぎて反応できずにいるなまえに、ゆっくりと周防がまた近づきはじめた。
 キスされる。
 それはわかってる。わかってるのに、なまえは動くことができない。目を閉じることもできない。
 ―――だってわたしは、彼が、尊が、まだ、ずっと。
 小さく胸の内でつぶやかれた言葉を、なまえが受け入れそうになったときだった。
 一階のバーでバタンというドアが開く音と、床板を踏みしめる軽い足音が聞こえてくる。

 ―――「あっ、やっぱり、なまえきてんじゃん!なんで? っていうか、どこ?なまえは?」

 同時に耳に届いたおさないこどもの声に、なまえは瞳を見開いた。聞こえたのは周防も同じだったらしく、ほんのあと数センチというところで停止する。
 どこ!なまえ、どこ!と連呼するこどもを宥めようとするあわてた十束と草薙の声を、なまえと周防は横目で窺った。

 ―――「え、もしかして、2階?」

 その鋭すぎる勘に、十束がうまく言葉返せなくて黙ってしまうのを察した。

なまえー!」

 きっとあのドアの前で呼びかけているのだろう、もうほとんどダイレクトに聞こえるタケルの声に、なまえは現実に引き戻されたような感じがして、目の前の周防の顔の近さに驚いた。

「は、はなれて、」

 下にいるタケルに聞こえないようにそういっても、周防は退こうとしない。
 ガチャ、とノブが回される音がする。

「おねがい」

 囁くようにそう言うと、観念したかのように瞼をおろして、ため息をつきながら周防は離れていった。
 と、同時に、タケルが階段をかけあがってきて、なまえと、その向かいにいる周防の姿を認めた。

「―――なにしてたの、なまえ

 まるで浮気現場を目撃されたような気分だった。上りきったところに立ったまま、タケルはなまえと周防を睨みつけた。
 なまえはあわてて笑顔を浮かべる。

「周防くんには、タケルがいつもお世話になってるから、ちょっと挨拶してただけですよ。というか、タケルさん、幼稚園はどうしたんですか?」

 「今日ははやあがりの日だって、朝いったけど」すこしふてくされたようにタケルがいう。「なまえ、ここくるなら、おれにもいってよ。おれだっていきたい」

 お母さんは来たくて来たわけじゃないんですよ、とはさすがにいえなくて、曖昧な苦笑いで誤魔化した。

「ごめんなさい、夜はシホさんのところにいかなきゃなので、昼しか暇がなかったんです。タケルさん、幼稚園が終わったのなら、帰りましょうか」

 するりと周防の横を通り抜けて、まだ納得していないようなタケルに右手をさしだすと、おずおずという風に握り返されたので、安心させるように笑って、なまえは階段を下りる。
 背中に刺さる、周防の視線を振り返ることは、しなかった。



 草薙のバーからの帰途、なまえとタケルは住宅街の路地を歩いていた。
 ふいにタケルが歩むスピードを遅くしたことに気づいたなまえがタケルを見下ろすと、タケルはじっと地面を睨みつけながら口を開く。

「ねえ、なまえ

 そこでいいにくそうに口を閉じてしまったタケルを促すように、なまえは首を傾げる。「どうかしましたか?」
 
「さっきと…あの日、みこととなんのはなし、したの?」

 なまえといるときはいつも上機嫌なタケルにしては珍しく、ぎゅっと眉を寄せて何かに耐えるように俯いている。自然と歩みが止まって、なまえははてと首を傾げながら尋ねた。
 さっきとは言わずもがなバーの二階の廊下で無言の押し問答をしているときのことだろう。やはり二人きりのところをみられてしまったのは、まずかった。
 うまい言い逃れが思いつかなかったため、タケルのいっていることがはっきりしていない、もうひとつの話題のほうを取り上げることにした。

「あの日、ってなんのことですか?」

「………」

 なまえが問いかけてタケルが黙りしたことは、いままでずっと一緒に暮らしていて片手で数えて足りるほど少ない。
 タケルはもともと素直な性分だったため、都合がわるいときの隠し事も、いいわけを探すということもしないからだ。
 そんな違和感と“あの日”という指示語に一抹の不安を覚えたなまえは、道路の真ん中ではあったがまわりに通行人がいないことを確認して、タケルの前にしゃがみ込む。
 目線があったなまえから、タケルがさっと視線を逸らした。

「おかあさんとタケルさんの間に隠し事はなしですよ?」

 なまえが優しい声色でそういうと、タケルはなぜか殴られたように傷ついた顔をして、すぐに泣きそうに口元を歪める。

 「なまえだって…かくしごと…してるじゃんっ」
ぽろぽろと涙を流すタケルをみて、なまえは呆気にとられた。そして、続くタケルのことばに、驚愕する。「みことと、ほんとは、なかよしなんでしょ」

「………はい?」

 もしやどこからか本当のことがバレてしまったのだろうか、いやでもわたしは誰にもいっていない、と頭の中で自問自答を繰り返し、それからすこしの可能性にかけてタケルに聞き返した。

「もしかして、草薙さんたちがなにかいっていましたか…?」

 なまえがそういうと、タケルがしゃくりあげながら首を横にふる。

「じゃあ、どうしてそんなこと」

 なまえはわけがわからず困惑するしかなかった。
 タケルはすうっとひとつ大きく息を吸って、涙を乱暴に自分の袖で拭って、なまえをまっすぐに見る。

なまえが、よんだんじゃん、あのひ、なまえがたおれた日、みこと、って!」

「え、」

「だから、おれ、みことに、いえに、いって、って、たのんだのに!」

 ガツンと誰かに頭を殴られたような衝撃だった。
 あの日って、倒れた日のこと?自分が、周防のことをタケルの前でなまえで呼んだ?タケルが周防に、家に行ってと頼んだ?
 ―――じゃあ、あの夢は?

「す、周防くんは…来たんですか、うちに」

 動揺を見せまいとしたが、声が震えてしまっている。涙はとまったものの、いまだしゃくりあげているタケルが、首を大きく横に振った。
 ほっ、となまえが安堵したのもつかの間である。

「―――しらない。おれ、みことよびにいったあと、アンナのとこに、のこったもん。でていくところまでしか、みてない」

「…呼びにいったら、周防くんは、でていったんですか」

「うん」

 これでは来たという確証も、来ていないという確証もとれない。
 なんということだろう―――、となまえは内心頭を抱える。
 タケルの前で自分と周防のつながりを見せてしまってはだめだ。ほんとうのことがバレてしまうような危険がある可能性は、1パーセントもないほうが良い。

 「タケルさん」なまえは乾いてしまった唇をすこしなめてから、慎重に言葉を選んでタケルに伝える。「わたしは―――お母さんは、あの日、とても熱が高かったので、じつはあんまり覚えていません。だから、周防くんが来たかどうかもよくわからないんです」

「………」

 そうなの?という顔をしたタケルに、畳みかけるようにつづけた。

「ほんとうは仲良しなんでしょ?と聞きましたね。仲良しというか、じつは学校が同じだったんです。草薙さんや、多々良くんもお母さんの知ってるひとだったでしょう?同じなんです。だから、」

「でも、みことってよんだじゃん」

 窺うように上目遣いで自分を見るタケルに苦笑いして、少し考えてから付け足す。

「んー、それは、タケルさんが聞いたのがたまたまそのときだっただけで、実は他の人も呼んでたんだと思いますよ。シホさんとか、瑞穂ちゃんとか、おばあちゃんだとか。草薙さんとか、多々良くんもかも。よく覚えていなくて、ごめんなさい」

 そういって、まだ少ししゃくりあげているじぶんの子供を抱きしめた。
 未だに不満があるのかしれないが、しばらくぎゅうとしているとおずおずと抱きしめ返してくる。
 ―――これは嘘になるのだろうか。
 なまえはタケルを抱きしめながら考えた。
 一番大事なことを隠して、だまして、嘘をつく。なんて最低なことなんだろう。なんて最低な、愛し方。
 間違ったことだとは思っていない。でも、もうどうしたいのかなまえにはほとんどわからなかった。タケルは大事だ。すべてを捨てでも手に入れた宝物。
 でも、そのタケルが、それを望んでいなかったら。ほんとうのことを、知りたいと望んでいたら。
 そんな可能性を、なまえはタケルに伝えることができない。

「…タケルさん、帰りましょうか」

 とりあえず、どうにかして、さっきのことの―――周防が自宅を訪ねてきたのかどうかの真偽を、速急に確認せねばならない。
 なまえは右手に感じる温もりを感じながら、そう決心した。

20130210 織間