草薙出雲は、自分の経営するバーのドアを開く。

「おかえりー」

「―――なんでまだおるん?」

 今日入った用事は急であったため、連絡の行き届かなかった吠舞羅の連中がバーに集まってしまうことは想像の範囲内だった。だから、草薙は用事が終わったあとでも、自宅に直帰せず、後かたづけや諸々の業務をすこしやってから帰ろう、といろいろあって疲れた足を引きずりながら、バーに向かったのだ。
 時刻は12時をとうにすぎていたため、さすがに店主のいない店にそこまで居座っているわけないと思っていたのだが、予想に反してそこはまだ電気が灯っていた。

「んーや、いろいろあって。ところで草薙さんは、なんでそんな薄着なの?寒そう」

 いきなり今日あったできごとの核心をつかれて、草薙はびくりと肩を揺らした。

「あー…まあ、こっちもいろいろ…。そっちはなにがあったん、って、なんでまだアンナ起きてはるの?」

 草薙がゆるりとまだ電気の灯っている店内を見回せば、そこにはソファに腰掛けるアンナがいた。
 いつもならもうとうに眠っている時間だ。
 ちょこん、と行儀よくソファに座ったアンナに話題を振れば、その瞳が草薙をじっと見つめる。

「イズモ、なまえ、いじめたの?」

 ぎくり、と効果音がつきそうな動作で、草薙は停止する。十束は「え?」と首を傾げ、アンナに促すような視線を送る。
 アンナが座っているソファの向かいにあるソファで、自分の腕を枕に目を瞑っていた周防も、うっすらと瞳を開いて、草薙を見た。

「あー…、いや、いじめたとかじゃ、ない、と、思いたい…」

 言い訳がましい言い方で遠回しにそう伝えながら、そろりと周防のほうに視線を流せば、もうすでに興味は無いというふうに目は閉じられていた。
 追求はなし、ととりあえず胸をなで下ろした草薙に、十束が眉根を寄せながら、詰問する。

「つまりいじめたと思われてもおかしくないことしたの?うっわ、草薙さん、性格悪い」

「これでも反省しとるんよ、ほんまに」

 ははは、と乾いた笑いを浮かべながら、店でのシホの態度を思い出す。自分は客としては完全に怒っていい立場にいたのに、あまり強くでられないくらい、冷たい笑顔で「お帰りください」と言われた。
 それはきっと店でのルールを破ったこともあるが、なによりなまえをああも追いつめたことが大半の要因であることはわかりきったことだった。なまえは昔から、まわりの人間に愛されやすい。

「じゃあもしかして、なまえちゃんがあんな格好で外あるいたの、草薙さんのせいなの?」

 非難めいた口調でそう責め立てられて、草薙は唖然とする。

「は? あんな格好て、いや、え?」

 草薙が最後になまえを見たのは、酒をかけられて、そのあとシホに庇われそのまま店の奥に消えていってしまうときだ。どんな格好でどういう風に帰ったなんて、まったく預かり知らないところである。
 困惑したように、それでもごそごそとバーカウンターのなかで作業を始める草薙に、十束は呆れたように告げた。

なまえちゃん、熱出して倒れちゃったんだよ」

 ぴたり、と作業をしていた草薙が停止する。

「………ほんま?」

「嘘ついてどうするの。タケルくんがさっき駆け込んできて、ちょっとした大騒ぎだったよ」

 あちゃあ、と額に手を当てた草薙が呻く。「なまえちゃん、やっぱ具合悪かったんかい…」いたずらごころで触れてしまったなまえの肌の、高い温度を思い出す。

「とりあえず俺と八田と鎌本でいって看病してきたけど。なにがあったわけ?」

 「あー…、」と言葉を濁すようにいった草薙が、ちらりとアンナを見ると、アンナは承知した、という風に奥の階段へと歩いていった。「ごめんな、アンナ」
 ううん、と首を小さく振ったアンナは、「おやすみ」と言ってそのまま階段を上っていく。

「今日行った店が、なまえちゃんの働いとる店やった」

「え!なにそれ、そんなことになってたの」

「おお。んで、ちょっとカマ掛けてみよかと思ってな…、」

 気まずそうに明後日の方向に視線を逸らした草薙を、十束がじとっとした目で追いつめる。

「一体なにしたの」

「聞かんといて…いま、罪悪感で死にそうやねん」

 そんなこといわれたらますます気になるじゃん、と十束は思ったものの、うっすらと目を開いた周防が心なしか草薙を睨んでいるように見えたため、口を噤む。
 気を取り直したように、十束は尋ねる。

「で、なんかわかったの?」

「タケルくんの父親、なまえちゃんの夫は、なんかおらんことになってるらしいなぁ。なまえちゃんのお友達っぽい子に話聞いたんやけど、見たことも聞いたこともあらへん、って」

 しゃがみこんで在庫を確認していた草薙が立ち上がり、続ける。

「で、そのお友達によると、なまえちゃんはタケルくん産んでから、タケルくんが覚えてる範囲でずっと独り身、ってことくらいやなあ、わかったこと」

「へえ…なんか、変な話だね」

 なまえとタケルという母子がおかれている状況はだいたいわかったものの、それが自分たちを避ける理由につながらない。どうしてなまえは姿を消すことになったのか、というそもそもの理由とも。

「こっちに戻ってきたのが一昨年のはじめっていいよるし、詳しいことをお友達から聞き出せへんのはしゃあないことやけどな」

 少し考え込んでしまった十束に草薙は苦笑いする。

「で、十束。おまえ、なまえちゃんち行ったんやろ?なんかわかったか?」

「ああ、いま草薙さんがいったことと、だいたい同じことしかわかんなかったよ。いまなまえちゃんとタケルくんはふたりで暮らしてるってことくらい。強いて言うなら、タケルくんがなまえちゃんを大好きってこともわかったけど」

「なんやそれ」

 呆れたようにいった草薙が、グラスの数の確認をはじめたときだった。
 ギイ、と店の奥にある階段につづくドアが開かれて、アンナが顔を出した。

「あれ?アンナ。どうしたの?」

「………タケル、くる」

 普段着のままではあるものの、髪飾りをはずしたアンナがとてとてと歩み出てくる。
 まるでタケルくんレーダーみたいだ、と若干笑ってしまいそうになったのを堪えた十束は、ドアのほうに視線をずらした。
 すると数秒後、アンナのいったとおり、外で足音が聞こえて、店のドアが勢いよく開かれる。
 店の中の視線がすでに自分に向いていたことに驚くタケルに、十束は首を傾げた。

「なんかあったの?」

 はあはあ、と先ほどまでではないにしろ息を乱しているタケルに、十束はソファから立ち上がる。
 アンナは誰よりも早くタケルに近寄るものの、タケルの視線はアンナを通り越して周防へと向かう。
 何かいいたそうに口を開いて、閉じる。俯いたタケルを心配するようにアンナが呼びかけると、決心したように顔をあげた。

「…みこと、おれんち、いって」

 十束も草薙も、周防も、一瞬意味が分からなくて、静止した。

「は? タケルくん、それどういう」

 すこし冷や汗を浮かべながら十束が訪ねると、タケルはそんな十束に見向きもせずに周防をまっすぐ見つめる。

なまえがよんでるから、いって」

 もうこれ以上いうことはない、というように俯いてしまったタケルを、周防はじっと見つめた。
 沈黙と静止が支配したバーの店内で、行動を起こしたのは周防だった。
 むくりとソファから起きあがると、どこか気だるげな所作でコートを掴み、ドアに向かう。
 タケルとすれ違うとき、俯いたタケルの頭をくしゃり、と撫でると、そのままなにも言わず出て行ってしまった。

 「タケルくん」十束はそういって周防がでていったドアとタケルを見比べる。「…どうしたの?」

 俯いた状態でぎゅっと拳を握りしめたタケルは、悲しそうに目を伏せる。

「おれは、いかない…ここにいてもいい?アンナ」

「…うん」

 タケルは手を取ったアンナに誘導されるまま、ソファに腰掛ける。
 そんなタケルの姿を見て、十束と草薙は目を合わせて首を傾げた。



 周防をはじめとるする草薙、十束の記憶の中にいるみょうじなまえは、大概が笑顔だ。とくべつたのしいことがあったわけでもなく、おもしろいことがあったわけでもないのに、にこにこにこと、綻ぶように笑っている。
 そんな記憶の中で、数回だけ違う表情を見せたことがある。鮮明にのこっているその記憶の中のひとつに、ふてくされたようにうつむくなまえの姿があった。

 ―――事の発端は周防がなまえへのメールを返信しわすれたことだった。
 周防は端末というものを持ちはしているものの、ひじょうに利用することがすくない。気が向いたら見て、気が向いたら使う。そんな利用方法だったゆえ、まわりにいる理解のある人間は、周防という人間から返信やアクションがなくても仕方がないものと割り切っていた。
 なまえもその例に漏れず、周防に送ったメールに返信がなくても電話がなくても、不便だなと感じることはあってもそれ以上気にすることはなかった。
 しかし、そのときだけは違った。
 なまえと周防がまだ高校1年生であるときの、ある日のことだ。周防が登校の際に絡まれて、喧嘩をして、朝から病院にお世話になったことがある。あらかじめ登校するといってあったのに学校にこなかった周防をなまえは心配して、普段なら絶対にしない(あてにしていないともいう)教師に周防のことを聞いてみたのだ。
 すると、病院にいったという。詳しいこともわからないが、草薙からそう連絡があったと。
 なまえは前々から周防が喧嘩をすることにいい顔はしないものの、自分が口を出していい領域の話でもないし、そもそも周防はだいたい勝ってあたりまえのようにしているから、一応は許容していたのだ。
 でも、学校を休んでまで病院に世話になるくらいの事態になったと聞いて、なまえはさあっと血の気が引くのを感じた。それで、あわててメールをした。いつも返ってこないのはふつうだが、草薙には連絡がいっているようだし、今日は自分と約束もしていたのだから、さすがに見るだろうと。
 でも返事はこなかった。
 いてもたってもいられなくなったなまえは担任に病院を聞き出して、学校を抜け出して向かった。あの周防が、病院に運ばれるくらいの怪我したなんて、信じたくなかった。
 その一心で走ってたどり着いた病院のエントランスで、受付の看護婦と話す草薙と、待合い室の席に座る十束と、その横にどってりと座る周防を見つけた。十束はなまえに気がついたらしく、ひらひらと手を振っている。
 「え、十束くん」なんでいるの、と息も切れ切れにいったなまえに対して、十束はけろりと「連絡があったから」と言う。
 「尊、わたし、メールしたんだけど」やっと整いはじめた息を乱さぬように静かに言ったなまえに、少し首を傾げた周防はこういった。「知ってる」
 なまえは本格的に呆気にとられた。「なんで返さないの?」
 ―――返ってきたのは、「わすれてた」の一言だった。

 膝を抱えて病院外の階段に座り込んだなまえと、所在なさげにその横に立っている周防が、ぽつりぽつりと言い合いのようなものをしている。

「わたしだって心配したのに」

「悪かった」

「悪かったじゃすまない。しばらく許さないレベル」

 言い合いといっても、一方的になまえが意見をいって、周防がそれに言葉少なに答える、という、いつもとたいして変わらないものだったが。
 しかしどこかいじけているようにふてくされているなまえは、十束と草薙からしてみれば珍しいものだった。

「…悪かった」

「尊、それしかいえないの? どれだけ心配したか、わかってる?」

 そういってキッと睨みあげたなまえの頭を、なにを思ったのか周防は乱暴に撫で始めた。
 一瞬驚いたように目を見開いてされるがままになっていたなまえは、

「やめ、やめて、許さないから、絶対に許さないよ!」

 といいながら必死に手を除けようとする。
 そんな二人をみながら、十束はなんとなくため息をついて草薙と呆れたように視線を交わした。

「なにあれ痴話喧嘩?」

「にしか見えへんよなあ」

 草薙も呆れたように笑いながら、周防の手から逃げきって、いまだにむっすーと唇を真一文字に結んでいるなまえを見つめた。
 なまえちゃんでも、ああいう風な表情するんやなあ、とか、新しい発見をしたときの驚きを胸に抱きながら。



 そして、むっすりとソファにすわるなまえのこども―――タケルの表情は、そのときのなまえの表情に酷似していた。

「…めっちゃ似とる」

「すごいデジャヴ感」

 たてた膝の上に腕を乗せて、そこに顎を乗せてむっすり。どこからどうみても、あの病院外の階段でむっすりしていたなまえとそっくりである。
 そんなタケルを見て親子そっくりとはまさにこのことをいうのか、とほほえましくて笑ってしまう。ふう、と息を吐いて、

「そんなにいじけるくらいならついてけばよかったのに」

 といった十束に、タケルはぎろりと目線で不機嫌さを表現すると、そのままむっすりとした声で続けた。

「………うるさいとつか」

 なまえが倒れてタケルがいちばん感じたことは、ただの自分の無力感だけだった。
 自分じゃどうしようない。できない。
 いままでずっとなまえひとりに支えられてきた実感。
 父親がいなくて“寂しい”とか“変だな”、とか思うことはあったが、“困った”と思うことはなかった。
 でも、そうじゃないのだ。今回はなまえが自宅前で倒れて、タケルが起きていて、助けてくれそうな知り合いがいて、だからなまえは助かった。
 でももし、なまえがどこか知らない場所で倒れていたら。
 タケルがぐっすり眠っていたら。
 周防とアンナたちと出会っていなかったら。
 考えただけで、タケルは涙が出てきそうだった。そしてまた、泣くことしかできないにいる自分に悲しくなった。
 その止めが、熱に魘されたなまえの譫言だった。
 ―――みこと。
 苦しそうにそう呟かれてしまったら、タケルにはもうできることはなにもないと言われているようで、つらくて、くやしくて、でもやはり、どうしようもなかった。
 なまえと周防がどんな関係なのかはタケルには見当もつかなかったが、ただ走った。悔しさを誤魔化すために、がむしゃらに。
 むっすりと押し黙ってしまったタケルを草薙と十束は苦笑い気味にみてしまう。こんな時間まで起きているのは、つらいだろうに。

 「なんで…」タケルは抱いた膝に顔を埋めて、呟いた。「なんで、みことなの」

 顔もあげなくなったタケルの頭を、そっとアンナが撫でる。

「だいじょうぶ、なまえの一番は、タケル」

「…なんで、アンナにそんなの、わかんの」

 タケルがアンナに対して少しでも反抗的な態度をとったのは、十束と草薙がみている限りはじめてだった。
 周防とアンナが連れてきてからというものの、たまに周防の横にそわそわとしながら居座ることがある以外は、タケルは基本的にアンナにべったりだった。アンナに言われたことには素直にうなずくし、大概のことをアンナ基準に考える。なまえの教育の賜物だろうと思っていたが、それ以前にタケルがアンナを好きだということもあったのだろう。
 あたりまえのことだが、タケルは吠舞羅のことをなにも知らない。だから、アンナの能力のことも、なにも知らない。
 アンナは少し悲しそうに俯いて、小さな声を発する。

「………わかるの」

 涙に濡れた顔を膝からあげたタケルは、苦虫をかみつぶしたような表情で、アンナを横目に見る。

「てきとうなこと、いうなよ、」

 そういってまた膝に顔を埋めようとしたタケルの服を、アンナが掴む。
 タケルが顔ごとアンナのほうに向き直ると、アンナはそっと視線をおろして、唇をぎゅっと結んでから、続けた。

「適当じゃない、わたしは、」

「アンナ」

 それ以上は、言ったらダメだよ。
 そういう意味を含めて呼ばれたなまえにはっとしたアンナは、怯えたように十束を振り返った。

「タケルくん、なまえちゃんはタケルくんのこと好きじゃないと思う?」

「…思わない」

「なら、それでいいじゃん」

 ね、とにっこり笑った十束をみて、すこし考えるように俯いたタケルは、「うん」とくぐもった声で返した。

「アンナ、ごめん」

「………うん」

 間髪入れずにすぐに謝ったタケルを、アンナが嬉しそうに撫でる。「素直やなぁ」と、感心してるのか呆れているのかよくわからない声色で草薙が呟いた。

「うーん、それじゃあ、べつの楽しい話でもしよっか」

 へらりと笑った十束が、タケルとアンナが腰掛けるソファの背もたれに腕を乗せて屈み込む。

「たのしいはなし?」

「そうそう。たとえば、アンナの誕生会どうしようか、とか!もうすぐだしね」

「そうなの?」

 どこかうれしそうにコクリとうなずいたアンナを見て、タケルは頬を綻ばせた。

「アンナ、たんじょうびおれとちかいんだ。いつ?」

「明々後日」

「えっ」

 淡々といったアンナの答えにタケルはびくりと肩を浮かせる。「おれ、プレゼントとか、なんもじゅんびしてない…」

「そんなの、いいよ。タケルが遊びに来てくれるだけで、たのしいから」

「う〜〜〜、でも、」

 すっかり姉のように振る舞うアンナと、複雑そうな顔をするタケルのふたりをみて、十束と草薙はなんとなくほほえましい気持ちになっていた。
 しかし、そこで、はたと十束は気づく。

「…タケルくん、タケルくんとアンナちゃんの誕生日って、近いの? いつ?」

 十束は少しふるえてしまいそうになった声を、持ち前の笑顔で隠して、そう訪ねる。
 そんな十束の動揺に気づいた草薙は首を傾げながらも、とくに指摘することなく聞いていた。

 「おれ?」アンナの誕生日の話をしていたのに急に自分にまわってきてきょとんとしたタケルが、ぽけっとした顔で答える。「12月20日」

「………で、何歳になるの?」

「6さい」

 こともなげにいったタケルに、十束は一瞬瞠目した。
 ―――まさか。でも。
 固まってしまった十束を、草薙がカウンターの中でしていた作業を中断して、訝しげに見る。

「どうした、十束」

 「えっ、あ、…なんでもない」言葉に詰まった十束は、そのまま無理矢理笑顔を浮かべると、話題をさっさと転換するように明るい口調でつづけた。「アンナもタケルくんも、もうそろそろ寝ようか」

 唐突な話題変換にタケルは首を傾げるものの、それを口にするまえにアンナが横から手を握った。

「タケル、一緒に寝よ」

「えっ、ほんと?」

「アカンで!許しません!」

 バッとカウンターの中から振り返った草薙がそういうと、タケルは目を丸くした。「なんで?」とすこし残念そうに草薙を見上げている。
 アンナはアンナで、1ミクロンも表情を変えずに不満のようなものを表していた。「タケル、寝るところない。どうして一緒に寝ちゃだめなの?」

 「くっ…!」純粋な瞳で見上げてくるこどもたちに、草薙はまともに反論することはできなかった。「今日だけやからな!今日だけ!」

「わかった。いこ、タケル」

「え? なんでダメなの?くさなぎ、なんで?」

 アンナに手を引かれながら、ずっとなんでなんでと見上げてくるタケルの瞳から逃れるように目を逸らす。「なんもない…なんもないから、はよ寝なさい…」

 未だに納得していないようなタケルを、アンナがぐいと引っ張っていく。ぱたぱたとこどもふたりが去っていったドアを数秒見つめた後、草薙は十束に視線を戻した。

「…で、さっきのあの顔、なんやの?」

 ―――さっきの、衝撃を無理矢理押し隠したような、顔。
 タケルは気づかなかったようだが、さすがに数年一緒にいる草薙は気づく。たぶん、アンナも気づいている。
 問いかけられた十束は、ふっと一瞬笑顔のようなものを浮かべようとするが、すぐに深刻そうな顔に戻って、ソファに向かう。
 そして、ぽつりぽつりと語りだした。

「いや、俺、タケルくんが前に“だいたい5歳”って答えたとき、なんとなく5歳になったばかりだって思いこんじゃってたんだけど…」

 ソファに座った十束は、自分の膝の上で組み合わせたてのひらを憂い気味に見つめる。

「タケルくんがこんどの20日で6歳になるっていうなら、なまえちゃんがタケルくんを産んだのは、―――高2の12月だ」

 そこまで言ったらもう、草薙にそれ以上の説明は不要だった。
 ―――突然浮上した可能性に、ふたりの大人は沈黙する。

130204 織間