霧のような雨が降っている。
 店の裏口から上着をきる間も惜しんで飛び出してきたなまえは、まったく音をたてずに降る雨に身を晒していた。
 頭痛がしてなにかを考えることもできないから、気を抜いたら止まってしまいそうな足を前に動かすことだけを意識する。

 ―――わたしだって。
 ―――ずっと一緒に。

 意味もなくリフレインする言葉に切りつけられるように頭が痛む。
 考えたくない。
 草薙の店で見た、記憶の中の彼よりずいぶんと大人になった姿が脳内をよぎる。
 ―――考えたくない。
 あのときあの場にいた自分を見ていたであろう彼の瞳が、直視したわけでもないのに思い浮かぶ。
 ―――考えたく、ない。
 6年たった今でも、まったく薄れることなく、なまえの想いはそこにあった。



 時計は11時を回ろうとしていて、タケルはもぞもぞと布団に入りこんでいた。
 明らかに体調悪げななまえを送り出して、しかしこの間シホにこっそり電話してたら全部バレて怒られたため告げ口することもできずに、心配する気を紛らわせる為にアンナのもとに遊びにいった。
 あの場所は騒がしくて、気の良い兄のようなひとたちが遊んでくれるから、タケルは大好きだった。
 ひとりだけ、タケルと遊んでくれず、そもそもその場所にいなかったり、いてもむっつりとソファに座っているだけの男―――周防がいたが、タケルは周防のそばにいるだけでなんとなく楽しい気分になった。
 つい先ほどその場所にいたひとたちのうちの面倒見の良い人に送り届けられて、アパートに帰ってきた。
 なまえはこのことを知らない。
 なまえはタケルに、あの場所に遊びにいくなといっている。
 それは、以前タケルを迎えにきたとき、草薙がひどいことをいって、なまえを傷つけたからだ、とタケルは思っている。だから、あの場所が嫌いなんだと。
 なまえの嫌いなものを、自分が好きになれるわけがない。
 タケルはそう思っていたのだが、あの場所は―――HOMRAだけは、唯一なまえに秘密にしてでも通いたくなるくらい、すきな場所だった。
 ―――あしたはなまえがやすみだから、あそびにいけない。
 普段ならうれしいことも、なんとなく寂しく思う。なまえが夜じゅう家にいてくれることなんて、月に何度もある訳じゃない。とても、うれしいことなのに。
 ―――なまえも、あそこがすきになってくれればいいのに。
 そのためには草薙がじゃまだ、とかなんとか考え始めたところで、タケルは唐突に思い出した。

「はみがき、してない」

 なまえとの約束だった。ぬくぬくとした布団を抜けるのはとても決断力のいることだったが、なまえの言いつけをすでに破っている負い目があるから、せめてもの罪滅ぼしにとそろりと抜けて洗面所へ向かった。
 寝室の襖をあけると、二間しかないなまえとタケルの住居では、すぐにリビングである。うすぐらいそこを通り抜けて、廊下へでた。
 すると、タケルの耳に、いつもの夜とは違う音が響いた。

「…なまえ?」

 カンカンカン、とアパートの階段を上る高い音が聞こえた。このアパートの住人を全員把握しているわけではなかったが、二階に上るハイヒールの音をこんな時間に聞いたのはこれがはじめてで、タケルは思わず耳を澄ませた。
 カツカツカツ、と歩いてきた足音は、やはりというか部屋の前で止まった。
 しばらく動きがなくてタケルは不審に思って、そろそろと玄関ドアに近づいてみる。

なまえ?」

 問いかけても返答はない。
 知らないひとが来たら、なにをいわれても、絶対にあけちゃだめですよ。
 そういったなまえの声が思い出されるが、いつまでたってもなんのアクションも起こさないドアの向こう側の人物に、違和感しか感じない。
 ―――ぜったいに、なまえだ。
 でも、ならばどうしてなにも言わないのか。
 どうして自分でドアを開けない。
 そのとき、ドアの向こう側で、ドサリという音が聞こえた。

なまえ!?」

 なまえのいいつけを、頭の中に浮かんだ悪い予感が消し去って、鍵を開けてドアをひらいた。

なまえ!!」

 そこには、ぐったりと柵によりかかるように倒れ込んでいるなまえがいた。
 タケルはさあっと寒さとは違う寒気がはいあがってくるのを感じて、目を見開いてふるえる。
 なまえが顔をあげない。

なまえなまえっ」

 駆け寄って呼びかけても、顔をあげない。
 頬に触れてみると、氷のように冷たかった。
 季節は冬、もともと体調を崩しかけていたなまえが、こんなしとしとと降る雨のなか、傘もささずに歩いた結果だった。
 タケルは息がうまく息ができないくらいの混乱のなか、とりあえず、部屋にいれなくちゃ、と思い立つ。
 ずるずると腕を引っ張って、玄関口まで引き込む。
 あと、どうすれば。
 どうすればいい。
 自分の倍以上はあるなまえを引きずりながら、タケルはそればかりを考える。
 そこで、タケルはハッとした。
 土端まで引き込んだはいいが、廊下まで引き上げることができない。
 めちゃくちゃにひっぱればできなくもないかもしれないが、それではなまえが変なふうに体を痛めて、傷つけてしまうかもしれない。
 ―――どうしよう。
 どうしようどうしよう。
 だれか、だれか。
 なまえがうごかない。目を開けてくれない。どうしよう。なまえが、なまえが。
 おれ、ひとりじゃ―――。
 そんなタケルの頭に思い浮かんだのは、たったひとつ、あの場所だけだった。
 ―――助けて。
 タケルはもう一度土端に倒れ込んでいるなまえをみると、上着も取らずに12月の雨の中を飛び出していった。
 ―――なまえを、助けて。

 ―――みこと。



 そのことに一番最初に気づいたのは、アンナであった。
 11時をすぎて眠そうにくったりとしていたアンナに、もう二階にいって寝るように促そうとしていた十束が、いきなりパッと目を見開いたアンナに首を傾げる。

「どしたの?アンナ」

 今日は草薙がいない日だから、バーの営業自体はしていない。けれど、急に入った草薙の用事に吠舞羅の連中が対応しきれるわけもなく、何人かが普段のように集まっていた。
 さきほどまでアンナの隣で寝てるのか寝てないのかよくわからないが目をつぶっていた周防も、ぴくんと反応したアンナに訝しげな瞳を向けている。

「タケルが、たいへん」

 そう小さくつぶやくと、ととと、とドアの方へ走っていってしまう。

「タケルくん? タケルくんなら、さっき藤島たちが送ったよね?」

「はい」

 確認も含めて十束が問うと、草薙の代わりに掃除をしていた藤島がこくりと頷く。
 だから安心のはずだよ、とアンナの方へ視線を戻すと、ふるふると首を振ってドアに手をかけ、そのまま開いた。
 冬の雨で冷え込んだ外の空気がすぐに足下を伝って十束のほうまで襲ってきて、身をぶるりとふるわせた。

「アンナー?」

 早く閉めてほしくて近寄ると、アンナは外をじっと見つめている。くるりと見上げると、「タオル」と小さくつぶやいた。

「タオル?」

 そう首を傾げながらもう一度問いかけて、開かれたドアから外をのぞく。
 すると、バシャバシャとまっすぐにこの店に向かって駆けてくる、小さな人影が見えた。

「え、あれ、タケルくん?」

「タオル、はやく」

 まだ状況を理解しきれていない十束が動くより、走ってくる人影が開いたドアから飛び込んでくる方が早かった。
 飛び込んできた人影―――タケルは、塗れた子犬のように髪の毛をぺたりとさせて、肩で息を整えている。

「タケル」

 「なまえがっ、」ハァハァと尋常なくらいに息を吐く合間にそう一言いって、耐えきれなかったように咳をしながら、声をかけてきたアンナを見上げる。「なまえが、たおれた!」

「え?」

 予想もしてなかった言葉に、十束は目を見開いた。
 アンナはタケルの背中を撫でている。

なまえが、かえってきて、ドアのまえで、おれ、なまえ、はこべなくてっ」

 ゴホゴホッともう一度咳をしたタケルに、タオルがばさりとかけられた。

「拭け」

 いつのまにもってきたのか、そこに立っていたのは周防だった。まだ整わない息のタケルは、かけられたタオルを払いのける。

「おれはいいから、おねがい、なまえを」

 払いのけたタオルをアンナが拾って、そっと拭きはじめる。

なまえを、たすけてっ…!」

 立っていられなくて床に膝をついたタケルをアンナがタオルの上から抱きしめた。

「タケル、落ち着いて」

「えっと…」

 なまえが倒れた。そのことはわかった。でも具体的に自分がどう行動したらいいかがわからなくて、十束はつい意見を求めるように周防の方を見る。
 周防は何かを考えるようにじっとタケルを見下ろして、それからふいと視線を逸らして、バーの奥にある階段のほうへと向かって行ってしまう。

「―――キング」

「………勝手にしろよ」

 ドアの奥に消える寸前、そう聞こえた周防のことばに、十束は襲ってきた苦みに耐えるように眉を寄せることしかできなかった。



 タケルに案内されるがままにたどり着いたアパートの二階の奥の部屋に、タケルの言ったとおり玄関で倒れ込んでいるなまえの姿があった。
 あわててとりあえず連れてきた鎌本に、タケルに案内してもらいながら寝室まで運ばせる。
 とりあえず一息ついたなまえの額に手をあてて、その熱さに驚いた。

「うっわすごい熱…、タケルくん、薬とかってどこにあるかわかる?」

 そばで息を詰めるように見守っていたタケルはじぶんに与えられた仕事に勢いよく首を縦にふると、ぴゅんとリビングの方まで飛んでいった。
 タケルは幼いくせに、一人前に自分の無力感に苛まれているらしい。十束は、母親によくにた子だ、と内心呆れたように笑ってしまった。

「さてと。…八田と鎌本はなんか適当に買い出しいってくれない?」

「え、あ、なにを買えばいいのか、わからねえんだけど」

「病人でも食べられそうなもの。俺がいってもいいんだけど、なまえちゃんの着替え、八田たちに任せるわけにはいかないからさ」

 「きがっ…!!!」女性の着替え、という単語だけで八田にとっては赤面ものらしい。鎌本のパーカーのフードを掴むと勢いよく引っ張りながら玄関の方へと引きずっていく。「おい、いくぞ!!!」

「あっ、ちょっ、八田さん早っ」

 どたどたどたと走り去る足音を聞きながら、ぐるりと寝室らしき和室を見回す。そして押入に目がついて、がらりと開けるとタンスがあった。
 一応確認のために、タケルを振り返る。

「タケルくん、ここなまえちゃんの着替え?」

「………おまえ………」

 タケルはさきほどまで十束のうしろで頼りきった目をしていたくせに、いまでは思い切り不信感を隠そうともせずにじとーっと睨みつけていた。

「いやいやいや、そんな目でみないでよ。こんな格好じゃ治るものも治らないだろ?」

 霧雨のなかを歩いたなまえの服はじっとりとしめってしまっていて、それが今もなまえの体温を奪い続けている要因であることは明らかだった。

「んんんん…」

 真一文字に口を結んで唸るタケルに、追い打ちとばかりに言った。

「タケルくんできる?」

「できない」

「だよね」

 「でも、ふくは、おれがとるから、」まだ納得していないというようなポーズをとりつつ、とてとてとタンスに近づく。迷いもなく上から二段目の引き出しを開けると、すこしゴソゴソ漁ったあとに厚手のトレーナーを出した。「はい」
 ありがとう、といってから、どうやって着替えさせようかと思案した。
 脱がして、着せる。これだな。
 そう即決して手を伸ばしたとき、なまえの瞼が重そうに持ち上がって、十束はすこしぎょっとした。

「…え、多々良くん?」

なまえちゃん、平気?タケルくんがなまえちゃんが倒れたって呼びにきたから、来たんだけど」

 起きあがろうとするなまえの背中を支えて、呼びかける。
 なまえは焦点のあわない瞳で十束を数秒見つめたあと、息苦しそうに息をはいた。

「ちょっと平気じゃないかも」

「着替えひとりでできる?手伝った方がいい?」

 ぐったりと体を預けてくるなまえをのぞき込みながらいうと、ふるふると首を横に振る。

「だいじょぶ、ひとりで、できる」

「無理だよ、そんなんじゃ」

 こんなときまで自分たちを突き放そうとするなまえに眉根を寄せながら、床に置いてあった着替えを取って渡してやる。なまえはもぞもぞとトップスを脱いでインナー一枚になった。
 十束の目の前でなんのためらいもなく脱いだ時点で、なまえの頭が正常に動作していないことはわかりきったことだった。
 ゆるゆるとした動きで渡された寝間着であろうトレーナーを被ろうとするものの、うまく手があがらないらしい。
 仕方ないよなあ、と手を伸ばそうとしたとき、十束の視界を小さい手のひらが覆った。

「…タケルくん?」

「とつか、みすぎ」

 むすっとした声が聞こえる。十束はそれに苦笑いして、

「このままじゃ変なとこ触っちゃうかも」

 とおどけてみせた。そんなつもりはないが、タケルの手をどかすためにもわざとうようよと手をさまよわせる。
 十束の不審な動きに肩を跳ね上がらせたタケルは、慌てて手を離した。

「だめ!」

 なまえが関わるとずいぶんものわかりのいいこどもになるタケルをみて、十束は思わず笑んだ。
 タケルくんがまたへんなことをするまえに終わらしてしまおう、とトレーナーをなまえの頭から被せると、なまえは緩慢とした動きで袖に腕を通した。
 着替え終わったなまえをゆっくり横たえて、上から掛け布団をかけてやる。

「よし。―――タケルくんは、ほんとうになまえちゃんが大好きなんだね」

 何気なく言ってからタケルの方をみると、びっくりしたように瞳を開いて十束を見返していた。
 タケルはさっと視線をはずしてなまえのほうをみながら、ぼそぼそとこぼす。

「あたりまえじゃん。なまえ、やさしいし」

「うん」

「ごはんおいしいし」

「うん」

「美人だし」

 母親をそんな目でみているのかと十束は苦笑いだったが、「うん」と相づちを打つ。

「わがままきいてくれるし」

「うん」

「ひとりでがんばってるし」

「…うん」

 正座で隣に座っているタケルの膝のうえにある拳が、ぎゅうと握りしめられていた。

「…たったひとりの、かぞくだし」

 そういったタケルの目から、ぽろっと涙が流れ落ちる。十束はぎょっとしたが、無理もない、と納得した。
 まだたったの5歳なのだ。
 こんな夜にいつもひとりで、だいすきな母親が倒れても、自分ひとりではどうしようもない無力をかみしめることしかできない、ただのこどもだ。
 ぐすぐすいっているその頭に手をおいて、やさしく撫でた。

「だいじょうぶだよ、へーきへーき」

 タケルは十束の手を払いのけることはせずに、こくこくと頷きながら袖口で目をこする。
 そんな幼いこどものようすを見ながら、この場にはいないべつの誰かを十束は思い浮かべていた。
 ―――どうしてこんなことになっちゃったんだろうね、キング。
 いまこの状況に対してでなく、すべてのことに対しての疑問だった。

「………タケルさん?」

「っなまえ…」

 まだ高熱で頭が朦朧としているであろうなまえが、枕元で泣いているじぶんのこどものために起きあがろうとする。そんななまえを十束があわてて制そうとするまえに、タケルががばっとなまえに覆い被さった。

「むりしちゃだめってゆったじゃんか!」

「ごめ…ね、タケル」

「ばか、なまえの、ばか!」

 十束の前では泣くのを堪えていたらしく、布団に顔を埋めて声を抑えようともせずに泣いている。

「ちょっと、タケルさん、おもい…」

 そう苦笑いしながらも幸せそうななまえと、それに全幅の信頼を寄せて泣きつくタケルという母子をみて、十束は安堵に息をはいた。
 タケルをなだめすかそうとしているなまえの声を背景に、そっと住居へと視線を巡らせる。
 一家族が暮らしているにしては、あまりにもものが少ない。なまえが働きにでているからには、裕福ではないことは承知のうえだったが、それにしてもものが少ないのだ。
 そもそも衣類だって押入に収まっているひとつのタンスだけで事足りてしまうくらいだし、リビングにおかれているチェストの上にはなまえのものらしき化粧道具がおいてあるだけで、写真もなにもない。
 床に放置されている幼稚園の道具などはタケルのものだろう。食器なども、さっきコップを取りにいく際に見た限り、どう見積もっても二人分しかおいていない。
 “父親”らしき人間の形跡が、まったく残っていないのだ。
 なんとなくそのことをなまえに問いかけようとして、幸せそうな母子をみて、十束は言葉を飲み込んだ。
 ―――今じゃなくても、いいかな。
 すっかり泣きやんだタケルが、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらなまえに「つらくない?だいじょうぶ?」と話しかけている。なまえは見るからにつらそうだが「だいじょうぶ、だいじょうぶだから、ね」といいながら、タケルの頭を優しく撫で続けていた。

「…すっかりお母さんだね、なまえちゃん」

 そうため息まじりにつぶやいた十束を、タケルが不可解なものを見る目つきで見てきた。「あたりまえじゃん、なまえはおかあさんだし」

「あはは、だよねー」

 適当に笑ってお茶を濁していると、何の前触れもなく玄関のドアが乱暴に開かれて、八田と鎌本がどたどたと入ってきた。

「十束さん、とりあえず、なんか、ゼリーとか、いろいろ、あの、買ってきました」

「おっ、八田にしてはちゃんとしたもの買ってきたか。でも一応人様の家だから、ああやって入ってくるのは関心しないよ」

 きょとんとした八田に十束が「女性のおうちなんだからね」というと、一瞬静止する。
 そのあと寝込んでいるなまえに視線を移し、一気に赤面して、

「じゃ、じゃあ俺戻るんで!じゃ!!」

 と妙なくらい早口で言うとまた鎌本のフードを引っ張って玄関へと引き返す。「えっ、ちょっ、八田さぁん!?俺まだなんもしゃべってな」「いいんだよいくぞ!!!」とかなんとか騒ぎながら、アパートをでていった。

「嵐のような子だね」

「おんなのひとが苦手なんだよ。まあ、普段もウルサイけど」

 ガサガサと八田と鎌本が買ってきた袋を漁ると、先ほど言っていたゼリーに、プリンに、お菓子に、と出せば出すほど子供っぽい内容になっていって十束は思わず笑ってしまった。

 「ま、薬はあるからいっか。とりあえず、ゼリーとプリンどっちか食べた後、薬飲んで、寝なよ」ことり、と枕元にスプーンと一緒において、飲みやすいように薬と水を一緒に添える。「両方たべてもいいけど」

「そんなに食べないよ、ばか」

 なまえは思わず笑って言うと、耐えきれないというように瞼を閉じた。そのまま眠りに落ちてしまったらしい。

「タケルくん、俺ももう戻るけど、ちょっとしたらなまえちゃん起こして、ちゃんと食べさせて、薬飲ませてね。できますか?」

 最後だけなまえの口調を真似て言うと、タケルは大きく頷いて「できる!」と高らかに宣言した。「約束する!」
 十束はよし、と立ち上がると、もう一度だけ電池が切れたように眠るなまえに視線を落として、タケルの頭を撫でて、アパートを後にした。



 なまえは、あまりにも熱くて、目が覚めた。
 今何時なのだろうとあたりを見回してみるものの、ぼんやりとしていてよく見えない。
 誰もいない、どうしてだろう、タケルは、というか、私は一体なにがどうなって、寝ているのだろう。
 そんななまえが眠気に引きずられるままもう一度眠りにつこうとすると、不意に、誰かの気配を感じ取った。

「み、こと…?」

「………ああ」

 これは夢なのか、となまえは判断した。
 熱に犯されたあたまで朦朧としている視界には、枕元に座ってこちらを気だるげに見下ろす周防がいる。
 思わず笑みがこぼれてしまった。
 ―――6年間も我慢できてたのに、ちょっと会っただけでこんな、こんなにも頭の中がいっぱいになるなんて。
 ―――ほんとうに、いつまでも未練がましい女。
 そういう意味合いでついゆるんだ頬に、周防のてのひらが当てられた。

「みこと、熱いね」

「………おまえもな」

 そりゃあ、熱があるからね、と心の中で答えて、なまえは頬に当てられた掌の感触に身を委ねる。

「みこと」

「…んだよ」

「みこと」

 その名前が呼べることだけがうれしくて、つい意味もなく何度も呼んでしまう。
 すると、頬に当てられていた周防の手のひらが、なまえの頬をぺしぺしと軽くたたいてくる。

「ふふ」

「大丈夫か」

「うん、へーき。ありがとう、尊」

 ぺしぺしと叩いてくる手の上に自分の手を重ねる。
 自分の頬とてのひらとで挟み込むようにして、その感触を味わった。
 おおきなてのひらだった。

「…ごめんね…」

 いきがくるしい。
 なまえは目を閉じて、頬に感じる温もりに、ありえないくらいの幸せに、涙が流れた。
 周防はなにも言わなかったが、おもむろに動く気配がしてなまえが目を開くと、寝ている自分のほうに屈みこんでくる周防と目があった。

 ―――夢だ、よね。

 なまえはぼんやり考え浅く息をしながら待つが、周防の顔は30cmほどのところで止まってしまう。

 ―――これが、夢なら。

 そう思って、頬でてのひらを挟み込んでいた手を離し、周防の頭の後ろへと回して、引き寄せて、キスをした。
 一瞬驚いたように見開かれた周防の瞳が、なまえの頭に焼き付いた。
 手の力を抜くと、ゆっくりと周防の顔が遠ざかっていく。
 幸せすぎる夢に、なまえはへにゃりと笑ってしまう。

「好きだよ、尊。ずっと、…ずっと」

 ―――いつかひとりで眠りにつくとき、またこの夢が見れますように。
 なまえは泥沼にはまるように沈んでいく意識のなかで、そう祈った。

20130201 織間