その日は体調がなんとなく悪い気が、具体的に言うと寒気がして、なまえはシホに許可をもらって少し休憩をとっていた。普段はそんな甘え許されないと我慢をするなまえだったが、顔色が悪いと心配した瑞穂がシホに頼み込んでしまったのだ。懇意にしているふたりに両側から攻められて、さらにはお客さんに移したら絶対に許さないからというシホのとどめのひとことがあり、なまえは休憩室に一人戻ることになった。
少し休んで体調が戻らないようだったら、今日と明日は来るんじゃないと言われている。
こんなことでペースを崩してる暇ではないのに、とひとりぼっちの休憩室でぼーっと壁を見つめていた。
―――どうせだったらもう帰ってしまおうかなあ、でも、今の時間ならまだタケルも起きているかもしれないから、心配して騒ぎだしそう。
そう考えて、どうしたのなまえやっぱりたいちょうわるいんじゃんだからいったのにむりしちゃだめだよもう寝ればあしたの家事はおれがやろうかとマシンガントークさながら足下からまくし立てる自分のこどもを想像して、ちょっと笑みがこぼれてしまった。
そのとき、不意になまえの端末がマナーモードに揺れる。
仕事をしている最中のなまえの端末に連絡してくるひとなんて見当がつかなかった。そもそもなまえの端末の番号を知っているひとなんて、このお店のひとか、四国の知人しかいない。あと可能性があるとすれば―――。
「タケル………?」
そこまで思いついて、飛びつくように端末を手にとった。タケルはなまえの仕事を知っているし、夜じゅう忙しいこともしっているから、軽々しく連絡を入れてくるとは思えない。普段なら休憩に入っている時間でもないのに連絡がくるということは、よほどのことがあったのかもしれない。
すこし血の気が引いてチカチカする視界で端末の画面をとらえると、そこには知らない番号が表示されていた。
とるかとらないか迷った末に、なまえは通話ボタンを、押した。
▽
「え、なんなん、その子」
「タケル」
いや名前聞いとるんちゃうんやけど、と草薙は手に持っていたグラスをカウンターに降ろして、たったいまバーに入ってきたアンナと見知らぬこどもと周防をみつめた。
周防とアンナは両方とも自分からぺらぺらと喋るような人種ではないため、草薙のほうから促さなければならない。
「えーと、アンナの友達?」
「うん」
見知らぬこどもは奥に座るガラの悪い連中に気を取られて草薙の言葉が耳に入っていないらしく、アンナが答える。
「今何時かわかっとる?」
「うん」
またもやアンナがうなずく。
まったく状況がつかめなくて思わずため息をついて、そばに突っ立っていた周防へと標的を移した。
「………尊?」
「………成り行きだ」
ぷい、と少し気まずそうに顔をそらした男をみて、草薙は一瞬呆気にとられた。
「ど、どんな成り行きやねん、見る人が見たら誘拐犯に間違われてもおかしくない構図やで!」
バァンと思わずカウンターに手をたたきつけそうになってから思いとどまる。バーを営む草薙にとってこのカウンターはとても大事なものだ。
そんな草薙の言葉に反応したのは見知らぬこどものほうで、きょとんとした顔している。
「え、みこと、誘拐犯なの」
「ちがうよ」
と、また答えるのはアンナだった。
「だめや…話が進まん…」
はあ、とため息をついて掌を額に押し当てたところではたと気づく。「………え、タケル………?」なにか聞き覚えがある、それもつい最近、とても衝撃を受けた場面で―――。
「たっだいまー!八田と鎌本拾ってきたよー!」
「さっきそこで会っただけっしょ十束さん!荷物までおしつけて!」
バァン、と勢いよく入ってきたのは十束で、その後ろには八田と鎌本が袋を持ってぎゃーぎゃー騒いでいた。
いやーさむいさむい、と入ってきた十束はまだカウンター付近で立ち往生していたアンナと周防を見、その足下にまとわりつくもう一人のこどもを見て目を見開いた。
「え、タケルくんじゃん!」
「あーっ、おまえ、あくのてさき!」
お互いがお互いを指さしながら、そんなことを言い合った。
十束とそのこどもが顔見知りだったことで、草薙もやっとタケルが何者だったのかを思いだし胸のとっかかりがとれたことに安堵し、それからヤバイ、と冷や汗をかいた。
―――まだ尊になんもいってへんやん、俺ら。
「ちょっと、何で俺が悪の手先なのさ」
そんな草薙の焦りをまったく関知せずに、十束はタケルに不満をいう。草薙はまてそのこどもが今なにか余計なこと言うたらクッション無しに尊に全部筒抜けやで―――と止めようとしたが時すでに遅し。
「なまえがいってた!なまえはうそをつかない!」
「えっ」
「あっ」
勝ち誇るように宣言したタケル。制止しようとしていた草薙と、自分の失態に気づいた十束は固まった。
アンナは無反応だったが、タケルを庇うようにすこし前に歩みでる。
三者三様で見守る中、周防は足下にいるタケルを見下ろして、怪訝そうにつぶやいた。
「………なまえ?」
「そうだよ!なまえはおれのおかあさん」
あっちゃーという顔をした十束と冷や汗をかいた草薙がそろって周防のようすを伺う。八田と鎌本はまったくもって話についていけず、買い物袋を両手に抱えたまま首を傾げていた。
「………名字は」
「え?おれの?―――みょうじ。みょうじタケル」
とどめだ―――と言わんばかりの暴露に、十束と草薙は肩を竦めるしかなかった。
アンナはきゅっとタケルの袖を掴んで、自分のほうへと引き寄せる。
店に入ってきてから、自分たちの預かり知らないところでどんどん緊張感が高まっていってついていけずに首を傾げるばかりの八田が、草薙と十束の焦りなど気にもとめずに―――というか気づかずに、ぽけっとした顔でつぶやいた。
「で、そのガキなんなんすか?」
八田、ありがとう、と十束は心の中でつぶやいた。空気読めない子で、ありがとう、と。
草薙はいまだにひやひやとしていたが、とりあえずいまのところなにもないと、様子をうかがうように周防をみやる。
「………知るか」
周防は短くそう答えて、はあ、とひとつため息をついてから、いつものように気だるげにソファの方まで歩いていくと、ぼすりと座り込んでしまった。
「尊」
「………んだよ」
控えめに声をかけた草薙に短く声を返す。草薙たちがなにも言い出せないことをわかっているから、周防からも余計なことは語らない。
「俺にはもうなんの関係もねぇことだろ」
そうつぶやいた周防に、草薙と十束はなんの言葉もかけることができなかった。
▽
なまえは自分の端末に表示された地図を見ながら、いつもなら恐々と進むであろう薄暗い路地裏を必死に駆けていた。
―――あ、もしもし。俺だよーわかるかな?
ふるえる手で取った端末から聞こえてきたのはつい最近聞き覚えのありすぎる男声だった。思わず固まって、それから「もしもし?あれ?なまえちゃん?」と呼びかけてくる声になんと答えようか喉が詰まってしまう。
―――た、多々良くん、どうして。
―――タケルくんから聞いたんだよ。いま、預かってる………あれ?このいいかたなんか誘拐みたいだ。ちがくて、うちに遊びに来てるんだよ。
えっ、となまえは思わず立ち上がってしまった。どうしてそうなった。
―――なまえちゃんも、くる?用事があるなら、あとでもいいよ。とりあえず楽しそうに遊んでるから。
―――なんならタケルくんに住所聞いて送り届けてあげようか?
なまえはその申し出を受けるわけにはいかなかった。
こうやって電話がかかってきてるということは、もう端末の番号は向こうに知られてしまっている。草薙が健在ならば、これはすべて謀ったうえでの行動だろう。つまり、タケルをうまくいいくるめてなにもかも―――なまえの仕事だとか、住所だとか、交友関係だとか―――がバレてしまいかねない。
―――いい、いいから、いまからいくから。
―――そっかあ、じゃ、待ってるね。あんまり急がなくても平気だよー。
端末の通話を切ってから、なまえはシホに報告する間も惜しんで店を飛び出してきた。
なまえがそのバーのドアを開けると最初に飛び込んできたのは、6年前とはずいぶん雰囲気の変わった知り合いの姿だった。
「ひさしぶり、なまえちゃん」
「………おひさしぶりです、草薙さん」
昔から容姿が整っているひとだとは思っていたが、こうやってバーカウンターの奥に佇んで、さらにはサングラスなんかかけちゃって、おしゃれな赤いスカーフまでしめちゃったあかつきにはとんでもなく格好がついていた。
それでもなまえにとって気まずさは薄れることはなく、むしろにこやかに話しかけられたことで罪悪感ばかりがつもる。
思わず俯いてしまったなまえの肩を、横から誰かが軽く叩いた。
「やっほう、この前ぶりだね、なまえちゃん」
「う………、あ、うん、この間は、ドウモ………」
相変わらず読めない十束のひとの良い笑顔を直視できなくて、すっと顔をそらす。
そこで、今日いろいろな心の葛藤を押し切ってまでこのバーを訪ねた理由を思い出してハッとした。
「あの、タケルは」
「…あそこだよ」
くいっと十束が示した先には、なまえが入ってきたことにも気づかず手にもったトランプに集中しているタケルの姿があった。
そしてその隣には小さい女の子がいて、そのまわりのガラの悪そうな少年たちとのミスマッチさに戸惑ってしまう。タケルはみた感じとても楽しそうにしているし、あんな小さな女の子もいるし、見た目ほどわるい子たちではない、のかもしれない。
声をかけるべきかどうしようか迷っているなまえの肩に、そっと十束が手を置いて、カウンター席のほうへと促した。
「ま、座って座って、タケルくん今トランプしてる最中だから」
「いや、でもあの、わたし、仕事抜けて来ちゃったし…」
俯いたときに落ちてきた髪の毛がじゃまで、耳にかけながら草薙と十束の様子をうかがうと、ふたりともなんともいえない顔をしていた。
そういえば、ここにふたりがいるのに、なまえがここにくるのを一番躊躇う原因となった彼がいない。
そのことに少し安堵して、やっぱり押し切ってはやいところ引き上げよう、と顔をあげたとき。
「あ!なまえ!?なんでいんの!?」
バーの雰囲気にまったく不釣り合いのおさない舌っ足らずなこどもの声が響いた。なまえはハッとしてそちらに向き合うと、なんだなんだとまわりでトランプに夢中になっていた少年青年の視線がいっきにこちらを向いていた。
思わず喉の奥でぐっと詰まってから、「迎えにきたので、帰りますよ、タケルさん」とふるえそうになる声を抑えながら言う。
「えっ、わっ、もーちょっとまって!あとちょっとでおわるからー!」ぴゃっと急にそわそわしはじめたタケルが少年青年のほうに向き直って足をばたばたさせる。「ほら、つぎ、アンナとみことだよ!」
「え」
タケルから発せられたなつかしいなまえの響きに、なまえはことばを失ってしまった。
見開いた目を戻すことができなくて、その集団のほうへと目線をやる。
なまえを見ようとソファのまわりに群がっていた人垣がすこし動いたらしく、先ほどとは違って小さな女の子の奥に座る人物がひとり見えた。
―――うそでしょ、そんな。
十束がいっていたし、彼がこのバーにいることは十中八九確かだったのに。
知っていたのに。
「―――…あ、」
「………ま、なまえちゃん、とりあえずそっち座ろう。もうすぐで終わるらしいから」
なにもいえずに立ち尽くしたなまえをそっと十束が促す。時が止まったように体が動かなかったなまえは、やっとの思いでカウンターの椅子へと腰掛けた。さっさと帰ろうと心に決めていたのに、腰掛けてしまった。
なまえはそんな自分の失態にも気づかずに、両手を固く握りしめて必死にこころの整理をつけようとする。
そんななまえのようすを見た草薙と十束がアイコンタクトをとる。
「タケルくんがさみしそーゆうて、アンナが聞かへんのや。わがままゆう子ちゃんやけど」
草薙が苦笑い気味に言った言葉を聞き流しながら、なまえはちらりと後ろを窺った。幸い少年青年たちの興味関心はなまえから離れていたようで(ひとりだけガン見していた少年もいたが、目が合うとすごい勢いで真っ赤になって逸らされた)、各々すきなことをしているらしい。
そんななかで、周防と、そのとなりに座り、膝の上にじゃれるようにのしかかるタケルと、そのタケルが話かけているアンナをみて、なまえは思わず泣きそうになった。
―――ああいう未来も、あったのかもしれないのに、とか、そんなの幻想だと、思っていたのにな。
まわりの人間たちから見るとただタケルが周防に懐いているようにしか見えないであろうが、なまえから見ると全く違う意味を持つ光景だった。
ぼんやりとそちらを見つめていたなまえの目の前に、トンとグラスがおかれる。
慌てて目線を戻すと、草薙がじっとなまえのことを見つめていた。
「………すみません、ご迷惑おかけして」
出されたグラスに口をつけることになんとなく気が進まなくて、両側から手で包み込んで見つめる。
「なまえちゃん、こんな時間まで、仕事か?」
「………はい」
サングラスの奥で、すっと草薙の目が細められたのをなまえは感じ取った。
「夫はなにしとるん? なまえちゃんが働きにでないといけないほど甲斐性なしなん?」
なまえはなにもいえなかった。
だんまりを決め込んだなまえを、しようのない妹をしかるような気持ちで草薙は続ける。
「あんな小さい子夜ひとり残すとか、してええと思うとんの?ここらへん、そんな治安いいわけちゃうんやし、そういうん気をつけなアカンと思うで」
草薙が言うことが正論すぎて返す言葉もなく、なまえはじわりと浮かんできた罪悪感をこぼすまいと必死に唇をかみしめて俯いた。
バレるわけにはいかないのだ。ここでバレたら、今までひとりでタケルを育てきた努力も、なにもかも無駄になる。
“彼”にはもう、なまえのいる場所とはちがう居場所ができていた。
「おい」
いつもは愛らしく、なんの裏表もなく自分をいやしてくれるその声が、全く違った色を帯びているのを耳でひろって、俯いていたなまえははじかれたように顔を上げた。
「くさなぎ、それ以上なまえのことわるくいったら、ぜったいにゆるさねえ」
先ほどまでのほほんとアンナとともに周防のまわりでうろちょろしていたくせに、今ではカウンターに座るなまえとその奥にいる草薙を一直線に見据えて仁王立ちしている。
瞳にはありありと怒りを浮かべて、触れたら切れてしまいそうなくらい神経を張りつめて、タケルは立っていた。
「タケルさん」
「なまえのことなんもわかってないくせに、悪くいうな」
ぼう、とその握りしめた両腕に淡く光りが灯ったのをみて、なまえは息を吸い込んだ。
慌ててカウンターから立ち上がると、その両手ごと、もう決して小さくはないその身体を抱きしめるようにかかえあげてから、草薙を振り返って言った。
「もういいんです、帰りましょう。草薙さん、おじゃましました。本当にごめんなさい、ご迷惑をおかけして。タケルにはもうここにこないように言い聞かせます」
いきなり勃発した騒動に、店内の視線が自分の背中に集まるのを感じながら、言葉を挟む隙をあたえないようにそういった。
目をあわせることはできなかった。
なまえがそういいながらドアの方へ歩いていると、腕の中でぶら下がるようにしていたタケルが不満そうになまえを見上げた。
「やだ、おれ、くるよ。くさなぎはきらいだけど、」そういってもう一度草薙を睨みつけた後、アンナの方を向いて「アンナとあそびたい」
「まあ、女の子を理由にするの。だめですよ」
「えー」
口をとがらせてなまえを見上げるタケルの視線を振り払って、なまえはドアのほうへと急いだ。―――背中に突き刺さる周防のものと思しき視線が、とても痛い。
「なまえ」呼び止めたのは、アンナだった。ふりかえったなまえの目をまっすぐみて言う。「わたしも、またタケルと遊びたい」
「アンナ、ちゃん、でも、」
初対面の小さい女の子にお願いされると、その願いを簡単には無碍にできなくて、言葉に詰まる。
これ以上自分たちが―――なまえがこの場所に関わることは、彼にとって、きっと気分のいいことではないのに。
そういう意味も含めた視線を直接送るわけにもいかずさまよわせていると、ソファに腰掛けた周防がため息をついた。
「………来たきゃ来ればいいだろ」
「ほんと?」
まってましたとばかりにその言葉に食いつくタケルを少しあきれた目で見下ろしてしまう。たしかに懐いているとは思ったが、いつのまに、なまえの言葉より優先するほどに懐いたのだろう。
どうやっていいくるめようか考えていると、カウンターの内側で、唐突にタケルから宣戦布告を受けてしまって苦笑い気味の草薙から声がかかる。
「尊もああいっとることやし、なんなら夜はウチで預かろか?」
「え………、だめです、そんなの」
―――そんなの、惨すぎる。
タケルは、むしろこの場にいるなまえ以外の誰もが、周防がタケルの父親だなんて知らないから、この申し出はほんとうに親切心から来ているものだと、なまえはちゃんと頭ではわかっていた。
なにも知らないからといって、今まで父親はいないと育ててきたタケルを、本当の父親のいる場所に、本当のことを告げずに預けるだなんて。
ただでさえタケルは周防に懐き始めている。このままでは、いつか―――。
さきほどのなまえにとって目眩がしそうなくらい幸せな光景を思い出して、そんなことが自分に赦されるはずがないと割きって、「とにかく、帰ります。おじゃましました」と感情がなるべくでないように短く吐き捨てて、なまえは逃げるようにバーをあとにした。
20130115 織間