「みこと」

 これは守るための決意なんだと、自分に言い聞かせながら、泣いた。

「尊。好き。誰よりも好き。ずっとずっと大好き」

 自分の両肩を抱きしめる。たとえもう二度と触れあえなくても、いままでの幸せがあれば生きてゆける。
 そう言い聞かせた。

 ―――妊娠検査藥が赤いプラスを示したあの日から、どうしてなにがこんなに悲しいのかまだちゃんとわかってもいなかったくせに泣いていたあの日から、なまえはずっと泣いている。
 どうしようもなく好きだった。まだ16歳であったけど、愛し続けられるだろうという、非常に漠然とした確信もあった。
 でも、言い出す勇気はなかった。
 拒絶されたら。否定されたら。そんなことされないかもしれない。でも、されるかもしれない。
 信じてないわけじゃない。でも、状況があまりにもイレギュラーすぎた。
 せめて、自分たちがふつうの高校生だったら、周囲の大人のちからを借りて、どうにかできたのかもしれない。でも、彼はふつうじゃない。
 彼は彼で悩んでる。そばにいたのだ、それくらいのことは、自分が一番わかってる。
 重荷になってはいけない。いまなら、きれいに消えることができる。これはひとりよがりだ。わかっている。

 ―――自分の世界を守るために、みょうじなまえは、周防尊の目の前から、姿を消すことにした。



 ギィ、とドアが開かれた音がする。

「あっ十束さん。ちーっす!」

「ん、」

 いつもなら陽気な声で入ってくる十束がほぼ無言で、しかも奥にたむろする連中に見向きもせずにカウンターの方へまっすぐ歩いていく。
 それを吠舞羅のメンバーは不審に思ったものの、それよりは目の前のポーカーの行方のほうが気になったらしく、そのままトランプへのほうへと視線が戻る。
 十束はといえば、カウンターにたどり着いて、振り向いた草薙が口を開くよりも早く、小声で言った。

なまえちゃんが、町に戻ってきてる」

「………は?」

 グラスを拭いていた草薙は、全く予想もしていなかった十束の言葉に力が抜けて思わず取り落としてしまい、手からすべり落ちたグラスは激しい音とともに床で砕け散った。
 こんどこそなんだなんだとカウンターのほうへと視線を集める吠舞羅のメンバーをお構いなしに、草薙と十束は話を進めた。

「今、なんて」

なまえちゃんが帰ってきてる。子連れで」

「子連れぇ!?」

「そ」

 そういいながら、カウンターの席へと座る。草薙といえば、いつもならグラスが割れようものなら即座に掃除に入るのに、今日はそれを放置してカウンター越しに十束の前へ立つ。
 草薙が片づけよりも優先するような話らしい、と察した出羽がおもむろに進み出て、ひとりで掃除をはじめる。それに軽く礼を言ってから、草薙は十束に向きなおった。

「どうゆうことや」

「そのまんまだよ。そこのスーパーで子供と買い物してた。すっごく美人になってたよ、やっぱり」

「えー…、ちょお、待ち…なんで、今さら…」

「最近まで家の都合で母方の実家にいたらしいけど。―――俺たちが両親に会いにいくほど探すとは思わなかったのかねえ」

 なまえがいなくなったあの日から、なまえについて何も語らなくなった周防の代わりに、十束と草薙はできるかぎり手を尽くして探し回った。もちろん、彼女の家に行き、その両親に面会する程度のことはやっている。
 だから、なまえの両親が健在で、6年前からずっと同じ家に住んでいることも把握している。しかも、なまえのことを訪ねてもまったくの黙りを貫いて。
 いなくなったのは家の都合ではない。なまえの都合だ。

「しかも子連れって、ええ………意味がわからん」

 草薙はいきなり突きつけられた事実に、それが意味していることについていけなくて、カウンターに両手をついてうなだれる。

「―――タケルくん、だいたい5歳、だって言ってた」

「タケル?」

なまえちゃんの子供」

「ほんまかいな………」

 はああ、と思わず深いため息をついた。
 バーHOMRAを運営している、チーム吠舞羅のNo.2兼保護者の草薙がため息をついている光景は、悲しいかなあまり珍しいものではなかったが、その話している内容が吠舞羅の青年たちにとっては珍しすぎた。

「えっ…なになに、草薙さん隠し子?」

「あ〜なんかやらかしてるとは思ってたけど…」

「まじかよ」

 そういう話題にいち早く乗ってくる千歳が言い出した隠し子発言に、その周りにいた面々はなぜか納得しだしている。草薙はおいおい、と苦笑いしながらも、

「冗談でもやめや…尊に殺される」

 と、満更冗談でも無さそうな声で告げた。
 いきなり飛び出してきた自分たちの王のなまえに、和やかに「俺も草薙さんにはそういう過去のひとつやふたつあると思ってたよ」とか「学生時代とかすごそうだもんなあ」とか無責任なことをぼそぼそ言い合っていた吠舞羅の青年たちは一斉に硬直する。

「そうだよ、今のはなし、キングの前ではしないでね。死んじゃうかもしれないから」

「え、―――え? 俺たちが?」

「わりとみんな」

「わりと!?」

 ま、キングが今どう思ってるか、よくわからないんだけどねー。
 のんびりとぼやく十束に、戦々恐々とする吠舞羅。

「どないしよ、ほんまに」

「どうしたらいいんだろうねえ。なんか俺、逃げられちゃったし」十束はカウンターに肘をついて、ため息をはいた。そこで、はたと思い出したように小さく声をあげる。「あ」

 「ん?」草薙はまだなにかあるのか、と額を押さえながら十束を促す。

「俺、タケルくんに、なまえの客か?って聞かれたんだけど」

「………客?」

 ぴしり、と自分の体のどこかで骨が鳴ったような音を、草薙は確かに聞いた気がした。十束はそんな草薙にうなずくと、

なまえちゃんがお口チャックです!っていったらタケルくんなんもしゃべらなくなっちゃったから、それ以上はわかんないけど。なんかの客商売やってるっぽいね、しかも、俺みたいなやつも対象になって、結構プライベートで関わってきても不思議でないような」

「おいおいおい…変なシゴトしてへんやろうな…」

「さあねえ」

 十束は肩を竦める。

なまえちゃんはなんて?」

「だから、逃げちゃったんだって。関わりたくはないんじゃないかな。逃げられちゃったからわからないけど」

「…なんか根にもってへん?」

 なんでもない風を装いながら、にこにこと笑う十束。そんな十束の言葉の端々から受ける違和感に、草薙は首を傾げた。

「ぜんぜん、そんなことないよ」

 ―――あ、コレ絶対根に持ってる。
 草薙はそう確信して、この状況にいったいどうやって手を出したらいいのか、むしろ出さない方がいいのかさえも判断がつかなくて、癖になってしまいそうな深いためいきをついた。



「いいですかタケルさん、さっきのお兄さんにまたどっかで会ったりしたら、お母さんのお仕事についても、住んでるところについてもお口チャックですよ」

 右肩にひとつエコバックを、右手にひとつ買い物袋をひっさげて、左手でタケルの手を握りながら、家の帰路を歩いていた。
 今回はほとんど強引に逃げきったが、次からもそううまくいくとは思えない。しかもタケルの性格からして、ひとを警戒するということはほぼ皆無だろう。

「なんで?」

 くりくりとした純粋な瞳で自分を見上げてくるこどもに、まさか本当のことはいえない。

「えー…えーと、それは。うーん」

「りゆうもないのにひとがいやがることをしない!」

 なまえと手をつないでいない方の手をぴんとのばして、タケルは選手宣誓のように高らかに反論した。
 そんなタケルににやりと笑ってから、

「ぶー。理由があっても人がいやがることをしてはいけませんよ、タケルさん。ハズレです」

 ふふん、となまえが勝ち誇ったような表情をすると、タケルがじとーっとした目で見上げる。

「…なまえ、いま、はなしそらした?」

「…そらしてません。あのひとは実はこわいこわい悪の組織の幹部なので…」

「うそだー!」

「本当ですよ。なまえは嘘をつかない」

「えええ〜………」

 まだ訝しげに見上げてくるこどもに苦笑いしながら、「ほら、おうちつきますよ。まず家に帰ったらなにをしますか?」と促す。

「てあらい!うがい!」

「正解です。じゃあ、先にいって鍵をあけられますか?」

「うん!あさめし…よるめしまえ!」

「うーん、それはちょっと使う意味が違いますけど、まあいいや、正解でーす」

 やったー!と言いながら駆けていくこどもの後ろ姿をみながら、素直な子に育ってくれてよかった、と突然こみ上げた感慨にひたる。
 いつもいい子だいい子だと思いながら育てているが、今日のはたぶん、あの十束多々良に出会ったから、その分こみ上げてくる感慨が深いのだろう。

 ―――彼らの元を離れて、もう6年が経つ。

 妊娠を告げると、まず、父親に平手を打たれた。親不幸者、恥を知れと罵られた。母親はずっと泣いていた。悲嘆にくれる母親をみるのはつらかった。自分にはかける言葉は、その資格はなにもないと思った。けれど、そのまま暗黙の了解のように堕ろすこととして話をすすめられていたから、なまえはイヤだといった。 
 自分のおなかにいる子に罪はない、みたいな台詞はドラマの中だけだと思っていたのに、多少の状況の違いはあれど同じ台詞を口にすることになるとは思ってもいなかった。
 そうやって父親と完全に決別して前にも後ろにも進まなくなったとき、母親がこっそり母方の実家のほうにいきなさい、と促してくれた。祖母は祖父に先立たれてから一人暮らしで、今回の件を聞いて驚いたものの、なまえの意志を尊重する、手助けをする、と申し出てくれたらしい。
 それからのなまえの行動は早かった。翌日学校に退学届けをだし、最小限の荷物をまとめ、3日後には四国に発った。

 ―――なまえはその日のことを、いまだに夢にみる。

「…なまえなまえ!」

 ハンバーグを頬張るタケルを見ながら物思いに浸っていたら、なまえの目の前で意識を確認するように小さなてのひらをゆらゆらさせるタケルがいた。

「やっぱつかれてるんじゃないの、なまえ。だいじょうぶ?」

「…大丈夫です、よ」

 突然現実に引き戻されてすこしどもってしまったなまえを疑わしげに半目でじとーっとみたタケルは、まだ納得いっていないような仕草をしながら続けた。

「時間はだいじょうぶじゃないとおもうけど」

「え? あっ、えっ!?」

 時計を見たらすでに6時直前。6時半にはお店に着かなければならないのに、これでは化粧も満足にできないかもしれない。
 なまえはあわてて立ち上がるとわたわたしながら部屋の中を右往左往し、なんとか準備を終えると化粧はお店でタイムカードを切ってからしようとチート紛いのことを考えながらパンプスを履いた。

「タケルさん、戸締まりお願いして大丈夫ですか?」

「だいじょぶー!」

 鍵を閉める時間も惜しくてドアに手をかけながらそういえば、もごもごとした返事が聞こえた。

「寝る前にははみがきをすること!」

「はぁい!っていうかはやくいきなよなまえー!」

 毎日釘を指さなければ絶対にやらないタケルに釘を打ち込むように言づける。

「いってきます」

「いってらっしゃーい!」

 そう元気良く叫んでいるタケルの声を背中に受けながら、なまえはアパートの階段を駆け降りた。



なまえ、今日具合悪いの?」

 無事お店につき化粧を終えひといきついたところで、オーナーのシホが近づいてきてそう話しかけられた。
 なまえは挨拶よりもさきに具合を訪ねられたことに首を傾げてしまう。

「はい?いや、そんなことないですけど…どうしてですか?」

 聞き返すとシホは自分のケータイを片手に振ってから苦笑い気味に息を吐いた。

「タケルから電話があったわ」

「………はぁ」

 タケルはなまえを見送ったあと、なまえが店につく前に告げ口のような形でシホに電話したらしい。その様子がありありと想像できて思わずなまえはため息をついてしまった。

「その様子じゃ大丈夫そうね」

「はい、すみません…ちょっと今日は昼寝が長引いちゃって、そしたらどうもタケルが心配したみたいです。あの子、今日に限って早く帰ってきたから」

「そ。タケルくんはなまえが大好きねえ」

 その言葉がなんとなく恥ずかしくて曖昧に笑ってごまかすと、シホはさして気にせずに「そろそろお店開けるから、準備しておいてね」と肩をたたいていってしまった。
 シホはなまえの働く店を取り仕切るオーナーで、なまえと年は近いが、もともとがお嬢様の出らしく、品が良くなんとなくちかより難い印象をうけてしまう。

なまえ、愛されてる〜」

「自分の子供にね」

 隣の化粧台で事の始終を聞いていたらしい瑞穂が、にやにやしながらいってきたのでまたため息をついてしまった。

「タケルはいい男になると思うわよお、わたしがもらっちゃいたいくらい。年下のオトコノコっていいわよねぇ」

「本気でいってるんだったら友達やめる」

「冗談にきまってんでしょ!」ケラケラ笑いながらいっているが、瑞穂は若い客ばかりを相手にしているのをよく目にするため一応警戒しておこうと心に刻んだ。「っていうか、タケルくんって今家にひとりなの?」

「…あー、うん。そう」

「大丈夫なの、それ」

「うーん…」

「はやいところ男捕まえちゃいなよぉ。そっちのほうが安心じゃない?」

 瑞穂は若い。なまえは今年23歳になるが、瑞穂はまだ20歳になったばかりで、なにより大学生という本業がある。あとがないなまえとは違って、そんななまえを気遣う発言を完全なる善意でズバズバと触れてほしくないところにしてくるから質が悪い、となまえは思っている。
 答えに窮していると、また別の方向から声が飛んできた。

なまえー、今日なまえ指名入ってるよ!ほら、あの、南瓜みたいなひと!」

 受付担当の子だった。なまえを出さないのは客への気遣いであろうが、その代名詞が“南瓜みたいなひと”ではどっちが良い呼び方なのか判断が付きにくい。

「えっ、いいなあ指名。わたしも一緒していい?」 

「年下じゃないけどいいの?」

「お金もってるひとのほうが好きだもん」

 そっか、じゃあいこうと笑って、なまえは瑞穂をつれて席を立った。



 暗い部屋にひとりでたたずんでまた一人考えに浸る。
 あのお店で働く娘たちは、自分の欲に忠実で、素直で、わかりやすくて、頭が良くて、つきあいやすい。越えてはいけない一線を、ちゃんとわかってくれている。
 そんな“いい娘”たちばかりの職場であるが、自分があとどれだけあそこで働けるかなんてわからない。着々と、その刻限は迫ってきている。タケルはもうすぐ小学生になるし、これからもっともっとお金が必要になるのに。
 どうしたらよかったんだろう、と、別の道を模索したことがなかったと言えば嘘になる。選んだ道は間違っていたんじゃないか、一緒にいきられる道もあったのではないかと。
 それでも、もう、あの場所に戻ることは、できないと思った。歯を食いしばって、唇をかみしめて、一生懸命タケルを背負って生きてゆく。そう決めた。
 帰ってきたなまえのにおいを感じ取ったのか、布団の中でタケルが身じろぎをした。

なまえ、おかえりなさい」

「…ただいま、タケルさん」

 たぶんこれから、つらい道を一緒に歩ませることになる。まさに道連れだ、となまえは思った。思ったら、涙がにじんでしまった。

「…なまえ、泣いてるの?」

 もぞ、と起きあがろうとするから、あわてて布団を押さえつけて、あやすようにトントンと手のひらでたたいた。

「泣いてませんよ。まだ寝ててだいじょうぶです」

 寝ぼけているのか、ぼーっとなまえのことを見上げる半分にひらかれた瞳。

「じゃあ、いっしょに寝る」

 押さえられていないほうの布団をもそりと開いて、自分の横になまえが入れそうなスペースをあける。
 その行動が、まさに彼のようで。

「…うん」

 タケルの布団は少し小さいから、なまえはほとんどタケルを抱きしめる形になる。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 自分の腕の中にある温もりを確かめて、なまえは一粒だけ涙をながした。
 ―――ごめんなさい、タケル。
 ―――ごめんね。

20130102 織間
とてもオリジナルのターンですみません。