もう6年も昔のことだ。
あのころの自分はとても若くて、無知で、社会のこととか、倫理とか、そんなものまったくもってわかっていなかった。
自分を包み込むものが世界で、それ以外はいらなくて、それだけで十分。自分の両手で包み込めるぶんだけ幸せがあればいい。
そういう気持ちで生きていたから、なにが過ちで、どこが罪だったのか、罰を受けている今でさえわからない。自分は生きたいように、生きていた。
それが悪いことだったとは、いまでも思えないのだ。
▽
「………」
いつでも優しい手で頭を撫でてくれていた手を思い出す。
その手の持ち主を小さく声にならない声で呼んでしまってから、自分の頭を撫でているのが別の存在だったことに気がついた。
「なまえ!おきて。時間、大丈夫なの?」
「…え、あ、タケル…さん」
目をあけると膝を抱えるようにしゃがみこみながらなまえをのぞき込んでいる少年がいた。
洗濯物を畳んでて、そのまま眠りについてしまっていたようだ。時計は午後4時を指している。
最近遊び盛りなのか、幼稚園からかえってからすぐに遊びにでて、なまえが家をでる時間ギリギリに帰ってくることが増えていたくせに、今日はなぜこんな時間に家にいるのだろう。
「なまえ、つかれてる?つかれてるなら、おれからシホにでんわするけど。あ、今日はやくかえってきたのは、ヤマトがはやくかえらなきゃってゆったからだよ」
まだどこか舌っ足らずな声でそう早口に伝えるこどもをぼうっと見つめて、それからむくりと起きあがった。
「ううん、仕事にはいくから、えっと、夜ご飯つくらなきゃね。なにが食べたいですか?」
「んー、なんでもいい。なまえのつくったやつなら」
それを聞いたなまえは、笑顔がこみあげてきて、おもわずそのままぎゅっと自分の息子を抱きしめた。寝起きの頭がまだ覚醒していないからか、妙に人肌が恋しい気分でもあったのかもしれない。
急に抱きしめられたタケルは、なんの迷いもなくなまえの背中へ手を回して、「どうしたの、やっぱりつかれてる?」といいながら、やさしく撫でてくれる。
「だいじょうぶですよ。せっかくタケルさんが早く帰ってきたんだから、お買い物、一緒にいきましょうか」
「ほんと! いきたい、いく!」
自分があのときさずかった宝物―――タケルはもうすぐ、6さいになる。
▽
「………あれ、タケルさん?」
近くのスーパーまで歩いてきて、カートを押しながら食肉コーナーで見比べていたなまえは、さきほどまで隣をちょこちょこあるいていたタケルがいなくなったことに気がつく。
“片親だから”と言われたりしないように、しつけはしっかりしてきていたつもりだが、最近のタケルはどうも枠に収まらないやんちゃっぷりを見せる。年が年だからしようがないことなのかもしれないが、やはり父親がいないというのは、こういうとき困るものなのかと悩まずにはいられない。
ほかのお客さんに迷惑をかけていないといいのだけど、となまえははらはらしながら、手に持っていたパックを、もう悩んでる暇はないからとカゴに入れて、どこかタケルのいそうな場所へと探しにでる。
「タケルさん、タケルさん」
大声を出すのははばかられるので囁くように探していると、一番最初の目的地にもうすぐでたどり着くと言うところでその声が聞こえた。
「えっ、兄ちゃん、このシリーズ全部もってるの?」
「うん、一時期妙にハマちゃってねー。シークレットも出したよ!」
「ええっ、いいなぁ、なんだった?」
「それいっちゃシークレットの楽しみがなくなっちゃうでしょ」
「それもそうですねー」
「そうですよー、…え、なんで急に敬語?」
しかし聞こえてきたのはタケルの声だけではなかった。
柔らかい声色ではあるものの、それは完璧にタケルと同い年とは考えられない男性の声で、なまえは心臓を捕まれるような思いで足を早めた。
カートが妙な音を立ててたどり着いたとき、ちょうどその音に気づいたタケルがしゃがみ込んでいた体勢から立ち上がってなまえに気がついた。
「あ、なまえ!おかし買って!」
「もう、タケルさん、勝手にいなくなったらダメですよ、びっくりするでしょう」
駆け寄ってきたタケルはなまえを見上げながら、「え、おれ、ちゃんといったよ」と抗議した。
「うそ。ほんとう?」
「ほんとー!」
そういえば、肉のパックを見比べているときに、足下のほうでわちゃわちゃなんか言っていたかもしれない。
これは一方的に責めるわけにはいかないな、と判断したなまえは仕方がないのでこれ以上の追求をやめることにして、「今度からは、ちゃんと返事があるまで勝手にいなくならいこと、にしないとなあ」と心の中で呟いた。
「………なまえ、ちゃん?」
「へ?」
なまえは思いも寄らないタイミングで自分の名前を呼ばれたせいで、間抜けた声がでてしまった。なまえのことをファーストネームで呼ぶ人間は多いが、こんなところで出会うような知り合いなんていない…はずだ。
それは明らかに先ほどまでタケルとはなしていた男性で、タケルが無事だったことに安堵していたなまえは声をかけられるまでその存在を気にかけることを忘れていたのだ。
「あ、え…っ、た、多々良、くん…?」
慌てて礼を言おうと顔をあげてみてみれば、そこにはかつての知り合いがいた。
「わあ、やっぱり、ひさしぶりだねえ。6年ぶりくらいかな?」
にこやかに話しかけてくれてはいるものの、そこになにか底知れないものを感じて、なまえは唇の端がひきつってしまうのを感じた。
―――だって、たしか、この十束多々良は、“彼”に陶酔していたはずだ。
「さ、最近こっちに戻ってきて………その、」
「ああ、やっぱり、探してもみつからないと思ってたら、どっかほかのところに行ってたんだ。 どこいってたの?なにしてたの?」
矢継ぎ早に繰り出される質問、そして何気ない一言に込められた意味にドキリとして、ぐっと喉がつまる。
探しても見つからない、ってことは、やはり、彼らはなまえのことを探していたのだ。なまえはその事実に頭が痛くなる。
十束の繰り出す質問の語尾には、すべてこうついているように、なまえには聞こえる。
「どうしていなくなったの?」
―――キングを捨てて。
捨ててなんかない。
でも、実際の状況はすべてその事実を示している―――それもなまえがそうなるように仕向たからなのだが、なまえが本心を叫べるのは心の中だけだった。
「ただの、ふつうの、家の都合だよ。四国の、お母さんの実家のほうにいってたの」
「ふうん、そうなんだ」そう一蹴されて、十束の視線はタケルへと移る。「ところでこの子、なまえちゃんの子ども?かわいいねー、タケルくんだっけ。ねえ、ぼく、何歳?」
「いま、だいたい、5さい!」
話に全くついてきていなかったらしいタケルは、急に話が振られて、少し考える仕草をしてから元気よく答えた。
普段から聞かれたことにはハッキリと答えなさいとしつけていたことが、ここにきて仇になるとは思いもしなかった。
「そう、5歳なんだ」と小さく呟いた十束の表情は完全に読めないものになっている。
―――よりによって、彼の側近である十束に見つかってしまうなんて。
この町に引っ越して来たからにはもしかしたら会うこともあるかもしれないと覚悟していたけれど、こんな昼間のスーパーで、しかもタケルと一緒のときに出会ってしまうようなことは全く考えていなかった。
「なまえちゃんさあ」
タケルに年齢を尋ねたときにかがみこんでいた体勢から起きあがると、十束は唐突にそう切り出した。
なにをいわれても仕方がないことはわかっている。自分がこのひとたちに―――このひとたちの大切なひとに対して、どんな無礼をはたらいたのかも、ちゃんとわかっている。
だからせめて、こういうときは、タケルがそばにいない方がいいと思っていたのに。
そう心の中で荒れ狂う気持ちに身をさらしながら、黙って言葉をまつなまえに十束は、
「最近ちゃんと食べてる?」
と、世間話のノリで話しかけた。
完全にこの上ないほど悪辣な言葉をかけられるだろうと身構えていたなまえは、とても間抜けな表情になっていたという確信がある。
「え………うん………それなりに、ふつーに…」
「ほんと? なんかすっごいひょろくなってない?昔はもっとなんかこう………あった気がする」
「は、はああ!?なにいってんの多々良くん、こどものまえで!」
「あっごめん」あまり悪く思ってなさそうな口調でそう答えてから、顎に手をあてて考え込むようなしぐさになる。「うーん、なんか記憶のなかのなまえちゃんと相違がある…あっ最近冬の鎌本みてるからかなあ」
「や、やめてよ………もう」
急に脱力したなまえは、先ほどまで感じていた緊張はいったいなんだったのかとため息をつく。そこで、妙にそわそわしているタケルの姿が目に入って、なまえは「ああこれ以上話が深くなるまえに、タケルが変なことを言うまえに、逃げてしまおう」と考えて、口にしようとしたとき。
「なになに、にーちゃん、なまえのお客さん?」
なまえは握っていたのが卵だったらきっと一瞬で粉砕していたかもしれないほど動揺した。
「は?」
十束は本気で呆けた顔である。
「タッ…タケルさんかえりますよ!!!帰りましょう!!!今日はハンバーグですやったね!!!」
「ハンバーグ!ほんと!やったね!おれ、にくこねるのやりたい!」
なまえは十束がなにか言う前に、ガーッとカートを引いて走り去る。逃げるが勝ちだ。なまえは真剣にそう思っていた。
タケルにとっては十束が自分の母とどんな関係なのかよりもハンバーグの肉をこねるのが優先だったらしく、わーっとなまえのあとに続いて走り去ってしまう。
「………客………?あっ、ちょっと!」
なまえとその子が慌ただしく戦線を離脱しようとした瞬間にはあまりに呆けすぎて反応できなかった十束も、ふたりがみえなくなる数瞬前に我に帰って走り去る背中を追いかけて足を踏み出した。
カートを押すなまえと、ちょこちょこ走るタケルに十束が追いつくのは至極簡単なことで、しかし追いついてもレジに向かうスピードをゆるめないなまえに併走する形で十束が走る。そしてそのまま話しかける。
「ねえねえ今どこらへん住んでるの?」
「えーっとねえ、鎮目町の、」
「タケルさんお口チャックです!」
質問に答えようとしたタケルを一瞬で黙らせると、なまえはそのままレジへと並んだ。
「ねーねーなまえちゃーん。無視しないでよ」
十束はなまえが会計をしている最中もずっと横についてくる。タケルはそれをじっと興味深そうに見つめているが、話しかけてはこない。きっとなまえ前のいった「お口チャック」の効果は絶大なのだろう。
会計を終えて袋に詰めるとき、あたりまえのように十束が隣にならんで手伝ってくれる。
「ねえ、なまえちゃん」
全部詰め終わって、十束が詰めていた袋をなまえがひき取ろうとしたとき、腕を捕まれた。
さきほど再会してから今の瞬間まで、適度に保たれていた距離が、一瞬にしてなくなったのがわかる。
「…はなして、多々良くん」
「キングはまだ、探してるよ」
息が詰まるのを感じた。
そんなわけない、と否定する自分と、まだ終わってないのかもしれない、と歓喜する自分がいて、なまえは返す言葉が思いうかばなかった。
しかしそのせめぎあう両方の自分がひとつの感情をしめしてることに気づいてしまって、すこし自嘲する。
彼のことが―――周防尊のことが、まだ、好きだなんて。なんて未練がましい女なんだろう。
なまえはそんな戸惑いに見切りをつけて、十束を見上げた。
「…帰る、から、はなして」
「………そっか」
十束はなまえの瞳から何か感じ取ったのか、それ以上追求することなく手を離した。
それからタケルの手を引いて、振り向きもせずに歩み去っていくなまえの背中をみつめながら、
「俺たちは、まだ、あのバーにいるよ」
と、小さく呟いた。その声がなまえに届いたかどうかは、たぶん、なまえにしかわからない。
20121229 織間
最終話を徹夜でみました。